鞍馬・貴船の間の話
Nさん(仮名・39歳女性・京都市左京区の大学講師)から、共通の知人を介して連絡をもらった話。メールで5往復ほど取材させてもらった。場所は京都市左京区の鞍馬寺と貴船神社の間の山道。「木の根道」と呼ばれる、修験道の修行場としても知られる古道で、観光客はこの道を歩いて鞍馬から貴船へ抜けるルートを取ることが多い。Nさんは「昼間の観光ルートじゃなくて、夕方に通ってしまった時の話」とのこと。場所と古道の名称はそのまま掲載することになった。同行した友人の名前は本人の希望で伏せ字。本筋はそのまま。
これは5年前の秋、京都に観光で行った時の話です。
当時の私は東京の大学院に在籍していて、研究の合間に休暇で京都を訪れていました。
鞍馬寺と貴船神社を巡る山道は、京都の観光ルートとして有名な道。
鞍馬寺の境内から、奥の院を通って、木の根道を歩いて、貴船神社に抜ける、という1時間半くらいのコースです。
「木の根道」は、地表に巨大な木の根が網目のように張り出している区間。源義経が幼少期に修行をしたと伝わる場所だった。
私と友人の二人で、午後から鞍馬寺の境内を回って、奥の院、木の根道、と歩いて、貴船神社に着いたのは、夕方の5時前でした。
10月の終わり。京都の山の中は、もう薄暗くなりかけていました。
貴船神社で参拝を終えて、貴船口の駅まで歩いて、叡山電車で出町柳に戻る、というのが当初の予定でした。
ただ、貴船神社で参拝中に、友人がスマホで時間を確認したら、貴船口駅からの叡山電車の終電に、ぎりぎり間に合わない時間だった。
(注:当時の話で、現在のダイヤとは異なります)
「鞍馬の方に戻ろう」と私は提案しました。
鞍馬駅の方が、叡山電車の本数が多くて、終電も遅くまであった。
ただ、貴船から鞍馬に戻るには、来た道を逆に、木の根道を通って戻る必要がありました。
山道は、もう薄暗い。私たちは少し急ぎ足で、来た道を戻り始めました。
貴船神社から木の根道までの登りで、空が暗くなり、私たちはスマホのライトを点けました。
木の根道に入った頃には、もう完全に夜。
山の中なので、街灯はありません。
スマホのライトの光だけが、足元の木の根を照らしていました。
木の根道の中ほどで、私たちは、自分たちの後ろから、足音が近づいてくるのに気づきました。
歩く速度は、私たちと同じくらい。
ただ、距離は徐々に近づいてきていた。
「もしかしたら、私たちと同じく終電に間に合わなくて急いでる人かも」と友人が小声で言いました。
私は振り返って、後ろを照らしました。
スマホのライトの光の届く範囲に、誰もいません。
ただ、足音だけが、はっきり聞こえていた。
私と友人は、歩く速度を上げました。
足音も、私たちの速度に合わせて、上がってきた。
私たちは、走りませんでした。
走ったら、後ろの足音も走り出す。そんな気がしたから。
木の根道の出口、奥の院の手前まで来た時に、足音は、ぴたりと止まりました。
私たちもそこで止まって、後ろを振り返りました。
誰もいません。
山の中の音は、虫の声と、風の音と、自分たちの呼吸音だけ。
私たちは奥の院を通り過ぎて、鞍馬の境内まで戻って、鞍馬駅まで降りて、無事に終電に乗りました。
電車の中で、私と友人は、足音について話しませんでした。
話したら、もう一度追ってこられる。そんな気がしたから。
京都に戻ってから、私はその話を、京都市内に住んでいる別の知人にしました。
「鞍馬と貴船の間の山道は、夕方以降は、地元の人は通らない」と知人は言いました。
「修験道の修行場で、修行者がいまも歩いていることがある、と地元では言われている」と。
「観光客は、昼間しか通らないから、知らないだけ」と。
その「修行者」が幽霊なのか、霊的な存在なのか、それとも別の何かなのか、知人にも分からないと言われました。
ただ、夕方以降、その山道を歩く時は、後ろから足音が聞こえることがある、というのは、地元では珍しくない、という話でした。
ネットで「鞍馬 貴船 心霊」と検索しても、貴船神社の縁切り伝承の話や、鞍馬寺の霊的な伝統の話は出てくる。でも、夕方の山道で足音が追ってくる話は、ほとんど見つかりません。
観光ルートとしての鞍馬・貴船と、地元の人が知っている夕方以降の鞍馬・貴船。たぶん別物として存在しているんだと思う。
今年の春、私は5年ぶりに京都を訪れました。
鞍馬・貴船の山道は、二度と歩かないつもりでいた。
ただ、東京の友人を案内する仕事で、別の山道、比叡山の延暦寺の周辺の参道を、夕方近くに歩く機会がありました。
山道の中ほどで、また、後ろから足音が聞こえてきました。
5年前の鞍馬の時と、同じ歩く速度。
私は友人には何も言わず、歩き続けました。
比叡山の参道を出るまで、足音はずっとついてきた。
京都の山道は、夕方以降、たぶん全部、似たような構造があるんだと思います。