林道の沢沿いで後ろから自分を呼ぶ声がして、家族の声に似ていたのに本人はずっと家にいた話

約3分
林道の沢沿いで後ろから自分を呼ぶ声がして、家族の声に似ていたのに本人はずっと家にいた話
共有: X LINE

Tさん(仮名・38歳男性・会社員)から、サイトの問い合わせフォームで届いた話。学生の頃から一人で山を歩くのが趣味だという。仮名と、場所をぼかすことを条件に、書かせてもらっている。

これは去年の春先、一人で山に入ったときの話です。

自分は単独登山が好きで、月に一、二回、誰も誘わずに歩いています。人気のある山より、地元の人がたまに使うくらいの、静かな所を選ぶことが多い。

その日は午前の早い時間に車を停めて、舗装の切れた林道から入りました。天気は曇り。風はほとんどなくて、自分の足音だけがずっと続いていた。

林道はやがて沢沿いの細い道に変わります。右手の下のほうで、水の流れる音がずっとしている。それ以外は、本当に静かでした。

歩き始めて一時間くらい経った頃です。

後ろのほうから、声がしました。

おーい、と。

自分の名前を、呼んでいました。

はっきり聞こえたわけではないです。沢の音に混じって、少し遠くから、自分の名前と、おーい、というのが届いた感じ。

自分は立ち止まって、後ろを見ました。誰もいない。来た道が、木の間にまっすぐ続いているだけ。

その日は平日で、この林道で人とすれ違ったのは、入ってから一度もありませんでした。

気のせいか、と思って、また歩き出しました。

五分くらいして、また聞こえた。

今度は、さっきより近い。おーい、と、自分の名前。

声に、聞き覚えがありました。家族の声に、よく似ているんです。家で自分を呼ぶときの、あの感じ。

自分は、振り返りそうになりました。返事も、しかけた。

でも、口を開く前に、止まったんです。

昔、山をよく歩いていた人から、一度だけ言われたことがあって。

山の中で誰かに呼ばれても、振り返るな、返事もするな、と。なんでかは、その人も言わなかった。ただ、そういうものだから、とだけ。

自分はそれを思い出して、声のしたほうを見るのを、やめました。返事も、しませんでした。

そのまま、前だけ見て、歩き続けた。

おーい、という声は、そのあとも何回か聞こえました。

だんだん近くなっている気もしたし、ずっと同じ距離のままだった気もする。沢の音で、よく分からなかった。

自分は早足になって、少し開けた所まで出ました。そこで一度、立ち止まった。

声は、もう聞こえませんでした。

結局その日は、予定していた所まで行かずに、途中で引き返しました。下りるあいだ、後ろは一度も振り返らなかった。

車に戻ってから、家に電話をかけました。なんとなく、声が聞きたくて。

出た家族に、さっき山で呼んだ、と聞いてみたんです。そうしたら、何の話か分からない、という顔をされて。

その時間は、ずっと家にいた、と言われました。出かけてもいないし、自分に電話もしていない、と。

自分が聞いたあの声は、家族の声に、本当によく似ていました。

でも、その家族は、その時間、ずっと家にいた。

それだけのことです。

あの声が何だったのかは、分かりません。空耳だと言われれば、たぶんそうなんだろうとも思う。沢の音は、人の声みたいに聞こえることもあるらしいんで。

あの林道が何なのか、昔そこで何かあったのかも、調べていません。地元の人に聞けば、何か言われているのかもしれない。でも、自分は聞いていないし、これからも聞かないと思います。

山には、別の所なら、今も一人で登っています。

ただ、あの沢沿いの林道には、あれから一度も入っていません。

こっちにも、もうひとつ

開発で一本だけ残された大木の周辺を造成していたら、朝ごとに塩と水が供えられ、夜の見回りで木の下に白っぽい人影が立っていた話

次の話を読む →