八甲田山、雪あとの足跡の話
Fさん(仮名・45歳男性・青森県内の森林組合勤務)から場所は青森県青森市から十和田市にかけて広がる八甲田山系。1902年の陸軍歩兵第5連隊雪中行軍遭難事件で210名中199名が亡くなった山として知られている。Fさんは「観光客が訪れる雪中行軍遭難資料館の話ではなく、地元の人間が冬山で見る別の話」とのこと。場所と歴史的事件はそのまま掲載することになった。同行した同僚の名前と勤務先の支所名は本人の希望で伏せ字。本筋はそのまま。
これは3年前の冬、2月の終わり頃の話なんですけど。
俺は青森県内の森林組合で、八甲田山系の国有林の管理の仕事をしてる。
冬は林道が雪で封鎖されるから、基本的にスキーかスノーシューで山に入る。
八甲田山が雪中行軍遭難事件で有名なのは、皆さんご存知の通りだと思う。
明治35年、陸軍の歩兵第5連隊が雪中訓練で210名中199名が遭難死した、日本の山岳事故の中でもいちばん大きな事件として記録されている。
観光客の人たちは、青森駅近くにある雪中行軍遭難資料館を訪れて、銅像の写真を撮って帰る。
資料館で「凍死した兵士の幽霊が見える」みたいな噂を、俺たち地元の人間に聞いてくる。
俺はそういう話には、いつも「分からない」と答えてる。
資料館で何かを見たことはない。
ただ、冬山に入る人間として、別のことなら、何度かある。
3年前の2月、同僚と二人で、八甲田山系の南斜面、田代平湿原の方へ、雪上の植生調査で入った。
朝の8時に車を雪の駐車場に止めて、スノーシューで山道を上がっていった。
晴れた日だった。風はなく、雪面に自分たちの足跡だけが、後ろに伸びていた。
1時間ほど登ったところで、同僚が立ち止まった。
「Fさん、これ見て」と。
雪面の少し前方に、別の足跡があった。
俺たちのスノーシューの跡じゃなくて、ふつうの登山靴の跡。
深さは、20センチくらい。新雪に普通の靴で歩いた跡で、足跡は小さく、進行方向は俺たちと同じだった。
前を行く誰かがいる、ということになる。
ただ、駐車場の車は俺たちのものだけだった。
登山口の入山届にも、その日の入山者は俺たちしか書かれていなかった。
「先に入った人間が、別ルートで登ってきたのかもしれない」と俺は同僚に言った。
そのまま登り続けて、足跡を追っていった。
足跡は、俺たちの15メートルくらい前を、ずっと続いていた。
同じペースで、足跡の主は前を歩いている、ということになる。
ただ、声を掛けようにも、姿が見えなかった。
斜面の先、雪の盛り上がりの陰に隠れているのか、と思った。
1時間ほど追って、ようやく稜線に出た。
稜線は風が強くて、雪が舞い上がっていた。
稜線に出る直前で、足跡は止まっていた。
俺と同僚は、稜線の手前で、雪面を見回した。
足跡の主が、稜線で待っているはずだった。
稜線には、誰もいなかった。
俺たちの目の前で、足跡は途切れていた。
進行方向にも、戻る方向にも、誰の足跡もない。
雪面に、ぽつんと、誰かの靴跡が、最後の一歩で止まっていた。
俺は同僚と、5分ほど、その場で立っていた。
風が強くて、声を掛け合うこともできなかった。
やがて、同僚が「降りよう」と言って、俺たちは稜線に出ずに、来た道を戻った。
降りる途中、最後の足跡があった場所を通り過ぎる時、足跡はもうなかった。
強い風で、新しい雪が積もって、消えてしまったのかもしれない。
俺たちのスノーシューの跡だけが、まだ残っていた。
車に戻ったのは、夕方の4時前だった。
下山後、組合の事務所で同僚と話した。
「あの足跡、俺たちが追っていったから、ついてきたんじゃないか」と同僚は言った。
俺はその言葉が引っかかって、しばらく眠れなかった。
あれから3年経って、いまも八甲田の冬山には仕事で入る。
新しい足跡を見つけることは、年に何度かある。
俺はもう、追わないことにしている。
資料館の銅像の話とは違う、地元の人間が冬山で見る話、というのが、たぶん正確な言い方だと思う。
今年の冬、俺は同じ田代平湿原の方に、別の同僚と植生調査で入った。
稜線の手前で、また足跡を見つけた。
今度の足跡は、登山靴ではなくて、地下足袋のような跡だった。
新しい同僚は何も気づかず、足跡の脇を通り過ぎていった。
俺はその時、もう追わない、と決めていたから、そのまま稜線に出ずに引き返した。
あの足跡が、3年前と同じ「先客」のものなのか、別のものなのか、いまも分からない。