夜勤者の話・第2話:奥に入った日の、明け方の血圧
目次
Mさん(仮名・31歳・関東圏の総合病院・看護師・夜勤歴7年)から、第1話に続いて、もう一本話を伺った。前回の取材から2週間ほど空けて、メールで2往復、オンライン通話を1回・約40分。仮名と病院名・診療科・所在地、Mさん本人の出身地と現住地、すべての伏字を条件に、引き続き掲載の承諾をいただいている。
管理人としては、第1話の「ナースコールが鳴らない部屋」の話を聞いた時点で、ああ、これは1話で終わらない、と感じていた。Mさんに連絡を入れたら、Mさんも『話せる範囲で、もう一本ある』と言ってくれた。
第2話は、第1話と同じ「奥」の部屋の話だ。ただし、現象は別系統。引き継ぎでも、ナースコールの件とは別欄で、申し送りされている。
順番に書く。
奥の部屋に、患者が入る日
奥の部屋は、いつも患者が入っているわけではない。差額ベッド代がそこそこ高いのと、構造が古いのと、いくつかの理由で、空床期間が長い。
3階東病棟の他の個室が満床になり、それでも個室希望の患者が来た時に、ようやく奥が使われる。
頻度としては、月に2回か3回ほど。長くても1週間で退院になる。
奥の部屋に患者が入ると、その夜から、引き継ぎノートに、もう一行が増える。
「奥、明け方04:00以降のバイタル、複数回測定」
たったそれだけの一行。
04:00以降のバイタルとは
夜勤帯のバイタルチェック(体温・血圧・脈拍・呼吸数・SpO2)は、患者の状態によって頻度が違う。重症の人は2時間おきに測ることもあるし、安定している人なら、20:00と06:00の2回で済むこともある。
奥の部屋に入る患者は、症状的には「個室が必要なほど重症」というわけではないことが多い。むしろ、家族が個室を希望するパターンが多い。なので、本来であれば、夜勤帯のバイタル測定は、申し送りが少なくて済むはずの部屋だ。
けれど、奥に入った夜は、04:00以降に、もう一度バイタルを取り直す。これが現場のルールになっている。
理由は、申し送り文には書かれていない。先輩から後輩に、口頭でだけ伝えられる。
「04:00過ぎに最初に取った血圧の値、信用しないこと」
初めて遭遇した夜
私が奥の部屋を担当したのは、入職して2年目の冬だった。
その夜の患者は、70代の女性。手術後の経過観察で、家族の希望で個室。状態は安定していて、夜勤帯の業務としては、特別なことは何もないはずだった。
引き継ぎで、先輩から「奥は04:00以降のバイタル、必ず2回測ってね」とだけ言われた。理由は聞かなかった。当時の私は、聞いてはいけない、というニュアンスを、何となく察していた。
04:00過ぎに、私は奥の部屋に入った。
患者さんは、よく眠っていた。声をかけて起こすほどではない。腕を出してもらって、血圧計のカフを巻いた。
1回目の測定値は、上が80、下が42。
低い。明らかに低い。手術後で安定していると申し送られた患者の値ではない。
慌てそうになって、それでも先輩の言葉を思い出した。「最初に取った値、信用しないこと」。
カフを外して、もう一度巻き直した。患者さんはまだ眠っている。
2回目の測定値は、上が118、下が72。
普通の値だった。
3回目を取った。上が120、下が74。安定している。
記録には、2回目以降の値を書いた。1回目の値は、書かなかった。
申し送りで、何が引き継がれているか
翌朝、日勤の先輩に引き継ぎをした時、私は「奥のバイタル、最初の値が低かったので、再測定しました」と、それだけを報告した。
先輩は、頷いた。表情は変えなかった。
「うん、それでいい」とだけ言った。
その日の夕方、シフト後に、別の先輩看護師から、ナースステーションの隅で声をかけられた。
「奥のやつ、今朝が初めて?」
私は、はい、と答えた。
先輩は、少し笑って、「最初の値、毎回違うんだよね。低かったり、高かったり。私の時は、上が180、下が110だった。でも2回目には正常になる」と言った。
『毎回違う』という言葉が、頭に残った。
つまり、奥の部屋では、04:00以降の最初のバイタル測定が、毎回、何かしらの異常値を出す。けれど、再測定すれば、正常に戻る。
カフが緩んでいた、患者の体動があった、機器の不調、いろんな説明はつく。一回測り直せばいい話だ。
けれど、説明できない部分
説明できないのは、頻度だ。
3階東病棟には、個室が8部屋ある。私はこの2年間で、すべての個室を担当した。
04:00以降の最初のバイタル測定で、明らかに異常な値が出るのは、奥の部屋だけ。他の個室では、こんなことは起きない。
もう一つ説明できないのは、機器を変えても起きる、ということ。
3階東病棟には血圧計が3台ある。点検も入っている。どの機器を使っても、奥の部屋では、最初の測定だけ、必ず異常値が出る。
機器の不調なら、他の部屋でも同じ頻度で起きるはず。けれど、起きない。
引き継ぎノートに、患者の名前は残らない
もう一つ、Mさんが取材の中で、ぽつりと教えてくれたことがある。
奥の部屋に入った患者の名前は、3階東病棟の引き継ぎノートに、残らないのだという。
正確には、入院期間中の申し送りには名前が出る。退院後、申し送りノートを過去ページに繰っていくと、なぜか奥の部屋の患者名だけ、ページから消えている。
消えている、という言い方は、正確ではないかもしれない。「他の患者の名前は残っているのに、奥の部屋の患者名だけが、書かれていない」という方が近い。
Mさんは、これに気づいたのは、夜勤歴3年目の頃だと言う。過去のノートを遡って何かを確認しようとした時、奥の部屋に入っていたはずの患者の記録だけが、申し送り欄から抜けていた。
誰かが意図的に消しているのか、書き忘れが続いているのか、Mさんには判断できないらしい。
「シフトリーダーに聞いたんですけど、『気にしないで』って言われて、それ以上は突っ込めませんでした」と、Mさんは話してくれた。
Mさんが、第3話で話してもいい、と言ってくれたこと
取材の終わり際、Mさんが、もう一つだけ話せそうな件があると言ってくれた。
「奥の部屋に入った患者さんで、退院後に、もう一度同じ病院に来た人の話、もし聞いてもらえたら」
すぐ書けるかどうかは分からないけれど、第3話で扱うつもりでいる。