犬鳴峠の手前で深夜に女の客を乗せたら、ミラーに姿が映らなかった個人タクシーの話

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犬鳴峠の手前で深夜に女の客を乗せたら、ミラーに姿が映らなかった個人タクシーの話
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Tさん(仮名・52歳男性・福岡近郊で個人タクシーをやっている方)から、サイトのフォーム経由で届いた話。後日、電話でも少し補足を聞かせてもらった。仮名と、場所の細かいところはぼかす条件で承諾をいただいている。

自分は十数年、個人でタクシーをやっています。その前は法人で十年ちょっと。だから、夜の街はそこそこ走ってきたほうだと思う。

深夜の流しが多いんです。終電のあとから、明け方まで。その時間のほうが、自分には合っている。

福岡の、犬鳴のあたりも、たまに通ります。今は新しいトンネルが通っていて、夜でも普通に抜けられる。

あそこが、いわゆるそういう場所だというのは、もちろん知っています。ただ、自分は由来とか、そういうのは詳しく調べていない。色々言われているらしい、という程度。

去年の、たしか十一月の終わりの夜でした。

深夜の二時を、少し回ったころ。客を一人送ったあとで、空車のまま、峠のほうへ向かう県道を流していました。

その日は、対向車もほとんどない。自分の前にも後ろにも、ライトは見えなかった。

トンネルの、手前です。カーブを抜けて、少し開けたあたり。

道の左の端に、人が立っていました。

女の人です。薄手の、明るい色のワンピースみたいな格好。こんな時間に、こんな場所で、と思いました。

手を、軽く上げている。タクシーを停める、あの合図です。

自分は、ウインカーを出して、寄せて停めました。後部のドアを開ける。

乗ってきたのは、二十代の後半くらいに見える女の人でした。会釈をして、後ろの席に座った。

行き先を聞くと、市内のほうの住所を、町名と番地まで、はっきり言いました。声は普通です。少し、低いくらい。

自分は復唱して、メーターを倒しました。時刻は、二時十八分。それは、伝票に残っているから覚えています。

走り出して、しばらくは、何もありませんでした。

ただ、信号で停まったとき、後ろの様子を確認しようと、バックミラーを見たんです。長くやっていると、これは癖でやる。

後部座席に、誰も映っていない。

ドアの内側も、シートも、ミラーの中だけ、空っぽでした。

自分は、首をひねって、直接、後ろを見ました。女の人は、座っています。さっきと同じ姿勢で、窓のほうを向いている。

もう一度ミラーに目を戻すと、やっぱり映らない。座っているはずの場所が、ミラーの中ではシートだけ。

ミラーの角度がずれたかと思って、指で少し直してみました。自分の顔は映る。後ろのリアガラスも映る。でも、人だけ映らない。

声をかけようかとも思いました。けど、何を聞けばいいのか、分からない。

結局、自分は前だけ見て、言われた住所に向かいました。早く着いてくれ、とだけ思って。

車内は、静かでした。エアコンの音と、タイヤの音だけ。後ろから、衣擦れも、息の音も、何も聞こえてこない。

途中、一度だけ、香りがしました。雨に濡れた土みたいな、湿った匂い。窓は閉めていたのに。

二十分ほど走って、言われた番地のあたりに着きました。古い住宅街で、街灯も少ない。家の前に、停めました。

料金です、と言って、メーターを示しました。返事がない。

自分は、ルームミラー越しじゃなく、振り返りました。

後部座席に、誰もいませんでした。

ドアは、開いていない。走っている間も、一度も開いていない。降りられるはずがない。

座面の、ちょうど人が座っていたあたりだけ、ぐっしょり濡れていました。

手のひらで触れたら、水でした。冷たい。色も、匂いも、ない。シートの縁から、少し垂れるくらい。

自分は、しばらく、その濡れた座面を見ていました。何が起きたのか、頭が追いつかない。

結局、料金は、受け取れませんでした。誰もいないんだから、当然です。

その夜は、もう流すのをやめて、車庫に戻りました。座面は、タオルで拭いても、なかなか乾かなかった。

次の日、念のため、言われた番地の家を、明るいうちに見に行きました。表札も出ていて、人が住んでいる気配はある。けど、それ以上は、何も。チャイムを押す気には、なれませんでした。

伝票には、二時十八分乗車、と残っています。降車の時刻も、金額も、空欄のまま。事務所の処理でも、そこだけ、いまだに埋められずにいる。

あの女の人が、何だったのかは、自分には分かりません。見間違いだ、と言われたら、そうかもしれない、としか言えない。

ただ、ミラーに映らなかったことと、あの濡れた座面は、今でも説明がつかない。

十数年、夜ばかり走ってきました。酔った客も、変な客も、ずいぶん乗せた。けど、料金を取れなかったのは、あのときだけです。

それからは、あの時間に、峠のほうを流すのは、やめました。空車でも、あっちには向かわない。それだけは、決めています。

こっちにも、もうひとつ

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