横向温泉ロッジ、上の階の視線の話
Aさん(仮名・45歳男性・福島県内で配管工事の自営業)の話。以前別件の取材でお世話になった福島県内在住の方の紹介で、本人と直接やりとりさせてもらった。電話で1回約40分、その後メールで4回ほどやりとりした。場所は福島県猪苗代町、磐梯吾妻スカイライン沿いに建つ「横向温泉ロッジ」。5階建ての廃ホテルで、地下ホールに少年少女の霊が出る、地下の風呂場で経営者が首を吊ったという話は、心霊好きの間ではよく知られている。Aさんが体験したのは、それとは別系統の話だった。場所と噂はそのまま掲載することになった。Aさん本人の名前と同行した友人の名前は、本人の希望で伏せ字。本筋はそのまま。
これは20代の終わり頃の話で、もう15年以上前になる。
俺は福島の郡山市の出身で、いまも県内で配管工事の自営業をやってる。
20代後半の頃、地元の同級生の何人かと、肝試しで猪苗代まで車で出かけたことがあった。
目的地は決まっていた。横向温泉ロッジ。
磐梯吾妻スカイラインの脇道を入ったところに建つ、5階建ての廃ホテルだ。
地下の風呂場で経営者が首を吊ったとか、地下のホールに少年少女の霊が出るとか、ネットで調べると物騒な話が山ほど出てくる。
タレントの稲川淳二さんが地下に入った時に、人生で一番の恐怖を感じた、という話も有名らしい。
俺たちが行ったのは、夜の10時過ぎ。
同級生は4人。Sという男ともう2人、20代後半。
俺は当時、配管工事の見習いを始めたばかりで、現場で疲れていたから、本音を言うと行きたくなかった。
ただ、同級生の盛り上がりに付き合って、車を出した。
ロッジに着いた時、駐車場には別の車が2台停まっていた。
俺たちと同じような目的の連中だろうと思った。声と懐中電灯の光が、ロッジの中で見えていた。
Sは「地下に行こう」と最初から言っていた。
ネットで読んだ通りに、地下のホールを見て、稲川淳二みたいに恐怖を感じてみたい、と。
俺は乗り気じゃなかった。
地下に入る前に、外の様子を見ようと言って、3人を地下に行かせて、自分はロッジの裏手に回った。
ロッジの裏は、磐梯山の方を向いた斜面で、夜の闇が深かった。
コンクリートの土台と、雑草と、錆びた窓の鉄格子。それだけ。
懐中電灯で照らしながら、ロッジの裏側を裏口の方へ回った。
裏口の鉄扉は、半分壊れて開いていた。
中から、空気が外に流れてきていた。
夏の夜だったけど、その空気は、奥から押し出されるみたいに冷たくて、気温じゃない冷たさだった。
俺は鉄扉の前で立ち止まった。
中を覗くのは怖かった。
だけど、空気が流れてくる方向は、絶対に階段で言うところの上の方だった。
地下からじゃなくて、上の階から、降りてきてる。
Sたちが入って行ったのは正面玄関で、地下に降りる階段だ。
上の階に、誰かいる。
俺は鉄扉の前で、しばらく立っていた。動けなかった、というのが正確かもしれない。
裏口の鉄扉のすぐ内側、壊れた階段の踊り場のあたりに、人の気配があった。
立ってる、というよりは、こっちを見下ろしてる感じだった。
上の階段の手すりのあたりから、何かが、こっちを覗いてた。
顔は見えなかった。輪郭も、はっきりしてなかった。
ただ、視線だけが、はっきりとあった。
俺は懐中電灯を消した。
光があると、もっとはっきり見られると思ったから。
真っ暗の中で、視線だけがあって、それが上から下へ、ゆっくり降りてくるのが分かった。
階段を、誰かが降りてきてる音はしなかった。
ただ、視線の高さが、徐々に下がってきていた。
俺は背を向けて、ロッジの裏手を、走らずに、できるだけ静かに、正面玄関の方へ回った。
「振り返るな」とは、誰にも言われていない。
自分でそう決めた。
振り返ったらまずいと、本能的に分かった。
正面玄関に戻ると、Sたちが地下から上がってきた。
3人とも、稲川淳二みたいな恐怖は感じなかったと、笑っていた。
「お前は何してたの」と聞かれて、俺は「裏でタバコ吸ってた」と嘘をついた。
タバコは吸わない。
車で郡山に戻る道中、俺は一言もしゃべらなかった。
Sたちは、ロッジに行った話を、後日いろんな人に話していた。
俺は誰にも、自分が裏で何を見たかは話していない。
いまでもネットで「横向温泉ロッジ」と検索すると、地下ホールの少年少女の霊の話、地下の風呂場の話、稲川淳二さんの体験、そういう話ばかりが出てくる。
上の階のことを書いてる人を、ほとんど見たことがない。
俺が裏口で見たものが何だったのか、いまも分からない。
ただ、地下じゃなかった、というのは、はっきりしている。
あれから15年以上経って、いまも仕事で福島県内をあちこち回ってる。
猪苗代の方にも、年に何回か仕事で行く。
磐梯吾妻スカイラインを通る時は、ロッジの方を見ないようにしている。