岐阜の実家、仏間の畳一枚だけを毎年同じ日に替える理由を誰も教えてくれない話
Tさん(仮名・41歳男性・名古屋市の物流会社勤務)から届いた話。
家の風習の話は、聞けば聞くほど「分からない部分」だけが残る。これもそういう話だった。
自分の実家は岐阜の山あいの集落にあります。祖母と両親が住んでて、自分は名古屋に出て、もう二十年近く経ちます。
古い家です。曾祖父の代に建て直したと聞いてるので、百年は経ってない、くらいの古さ。仏間が八畳あって、仏壇と、祖父と曾祖父母の写真が並んでます。
六月の畳屋
うちには昔から、変わった習慣がひとつあって。
毎年六月の決まった日に、仏間の畳を一枚だけ新しくするんです。
八畳のうちの一枚だけ。場所も決まってます。仏壇の正面から、二枚目。部屋の真ん中あたりの一枚です。
畳屋さんが朝に来て、その一枚だけ持っていって、夕方に新しいのを入れて帰る。子どもの頃から、毎年そうでした。
六月に畳替えなんて、普通はしないらしいです。梅雨どきは畳が湿気るから、職人さんは嫌がる時期だと、大人になってから知りました。
その日のきまり
畳替えの日は、家族は仏間に入らない。
禁止と言われた記憶はないんです。ただ、その日は仏間の襖が閉まってて、母も祖母も近づかない。子ども心に、今日は入らない日なんだと覚えました。
お盆や正月は普通に使う部屋です。法事もやります。その日だけ、家の中なのに、家じゃないみたいな扱いになる。
小さい頃は、畳替えの日が少しだけ楽しみでした。新しい畳の匂いがしたから。夕方に襖が開くと、青い匂いが廊下まで流れてくる。あの匂いと、誰も何も言わない感じが、セットで記憶に残ってます。
一度だけ、小学生の頃に聞いたことがあります。なんで毎年一枚だけ替えるの、と。
祖母の答えは、畳が傷むから、でした。
じゃあなんで一枚だけ、と聞いたら、そこがいちばん傷むから、と。
誰も座らない場所なのに、です。
畳屋さんの様子
大人になってから、畳屋さんと話したことがあります。三年前の六月、ちょうど帰省が重なって、作業を見かけたので。
年配の職人さんで、先代から引き継いでうちに来てると言ってました。
毎年すみません、と声をかけたら、いえいえ、と。それから、世間話のついでみたいに聞いてみたんです。この一枚、傷み方どうですか、と。
職人さんは少し間をおいて、言いました。
「傷んではないですよ。毎年替えるんだから当たり前ですけど」
じゃあ何のために、と言いかけたら、軽トラの方へ歩きながら、こう言われました。
「うちは頼まれた仕事をするだけなんで。気になるなら、おばあさんに聞いてあげてください」
その言い方が、知らないというより、言わない、に聞こえました。
ちなみにその一枚、見た目では分かりません。お盆に帰省する頃には他の畳と馴染んでて、言われなければどれが新しいか分からない。
一度、妻が帰省のときに、この部屋きれいにしてるね、と言ったことがあります。母が、ええまあ、と笑って、それで終わりました。妻にはこの習慣のことを、まだちゃんと話せてません。
祖母の答え
去年の正月、祖母と二人になったときに、もう一度聞いてみて。祖母は九十を越えて、足腰こそ弱りましたが、頭ははっきりしてます。
あの畳、本当は何なの、と。
祖母はテレビを見たまま、しばらく黙ってました。それから、言いました。
「おまえの代になったら分かるわ」
それきり、その話はできてません。
母に聞いても、私もそれしか言われてない、と。母は嫁いできた人なので、本当に知らないんだと思います。父は、聞くな、としか言いません。
いま思うこと
畳の下に何かある、と考えるのが自然なんでしょうけど、確かめた人は家族にいません。畳替えの作業中、その部屋にいるのは畳屋さんだけ。
自分はいずれ、あの家を継ぐことになります。長男なので。
そのとき分かるなら、それでいいような、知りたくないような。六月が来るたび、少しだけ考えます。