祖母から行くなと言われていた集落の話
Qさん(仮名・58歳女性・関西で長年自営業(呉服関連))の話。共通の知人を介して連絡をもらい、何度かやりとりして話を伺った。仮名と地名ぼかしを条件に承諾をもらっている。
これは話していいのか今でも迷ってる話なんですけど。もし読んで気分が悪くなったら、途中でやめてもらってかまいません。
私は東北の山あいの集落の出身で、高校までずっとそこで育ちました。
進学で上京して、そのまま東京で就職して、いまは結婚して子どもが一人います。実家には年に一度、お盆に帰る程度。
集落そのものは戸数が三十軒もない小さなところ。分校もとうにありません。
子どもの頃から、大人に繰り返し言われていたことがあるんです。裏山の向こうには絶対に行くな、という話。
うちの集落の裏には低い山があって、子どもの足でも1時間あれば尾根に出られます。
その尾根の向こう側に、もう一つ集落があるらしい。祖母からそう聞いてました。
らしい、というのは、祖母自身も入ったことがないからなんです。
明治の終わりの生まれで、嫁いでくる前から「あっちには行くものではない」と親に言われて育ったらしい。
理由を聞いても、行くなと言われたから行かない、とそれだけ。
父も母も、その話になると口数が減ります。集落の年寄りは、あっちの方角、という言い方をして、地名そのものを言わない。
子どもの頃に町の図書館で地形図を広げてみたんですけど、うちの集落の名前はあっても、裏山の向こうには何も書かれていなかったんです。沢の線と等高線だけ。
当時は、集落と言っても廃屋しか残っていないんだろう、くらいに思ってました。
近づいたのは一度だけ。高校二年の夏でした。
同じクラスの仲のよかった友達と二人で、夏休みの自由研究の取材という名目で、うちの裏山に入ったんです。
友達はその集落の話を私から聞いて面白がっていて、行ってみよう、と言い出したのは向こうから。
私は、行くなと言われてる、と何度か止めたんですけど、結局押し切られて、午前中のうちに尾根まで上がりました。
尾根に出るまでは普通の山道。よく踏まれた獣道で、迷うような道ではありません。
問題は尾根を越えてからなんです。
下りに入ると、急に風がやんだ。蝉の声も聞こえなくなったんです。
耳が詰まった感じがして、つばを飲み込むんですけど、戻りません。友達も、おかしいね、と。
下りの道の途中に、石を四つ積んだだけのものがいくつか並んでたんです。
塚なのか、目印なのか、分からない。新しいものではなくて、苔に覆われてた。
そのあたりから、道の脇に湿った布のような匂い。
何の匂いなのか、いまも説明できません。生臭いというのとも違って、雨に濡れた古い座布団の匂いに近かったと思います。
もう少し下ったところで、木の間に屋根のようなものが一瞬見えました。藁葺きの屋根の角が一つだけ。
私はそこで足が止まったんです。
屋根が見えた、ということよりも、屋根のあるあたりから、こちらを向いて立っている誰かがいるような気配がして、それで動けなくなりました。
本当にいたのかは見ていません。見たくなかったから、そのまま視線を下げた。
友達は、行こう、と言いました。私は、戻ろう、と返したんです。
少しだけ言い合いになって、最後は私が泣きそうになって。それで二人で尾根まで戻りました。
尾根に出たら風が戻ってきて、蝉の声も聞こえる。下りで匂っていた布のような匂いも、もう消えてました。
家に着いたのは夕方。祖母には何も言いません。友達も、結局そのことを誰にも話さなかったみたい。
その友達は、二十代の終わりに病気で亡くなりました。
詳しい病名は親御さんから聞かなかったので分からない。同窓会で訃報を聞いたとき、私はあの夏の山のことを思い出しました。
関係があるのかは分かりません。
ただ、あの日尾根を越えたのは友達の方が先で、戻るときも後ろから着いてきてたんです。
私は引き返してから、あの方角に向かったことは一度もない。
大人になってから、何度か調べたこともあります。
国土地理院の昔の地形図をさかのぼっても、裏山の向こうの一画に集落の表記はありません。
町役場で郷土史の冊子を見せてもらったこともあるんですけど、うちの集落の記述はあっても、向こう側については一行もなかったらしい。
担当の人には「そのあたりは元々何もないですよ」と言われました。私は、はい、と答えるだけ。それ以上は聞きませんでした。
実家にはいまもお盆に帰ります。子どもを連れて行くようになってからは、裏山の方をなるべく見ないようにしてる。
子どもにも、あっちの山には登らないでね、とだけ言ったんです。理由は説明していません。
母が祖母から受け取った言葉を、たぶん私もそのまま渡しただけ。
本来、他所に書いてはいけない話なのかもしれません。ここまで書いて、自分でも迷ってます。もし思い当たる土地のある方がいても、深入りしないでください。私から言えるのはそれだけです。