家賃が安いから借りた事故物件で、いない人の生活音が続いた話
Tさん(仮名・27歳男性・会社員)から、サイトのフォーム経由で届いた話。春に転職して引っ越したばかりの部屋での出来事だという。仮名にすること、場所や建物が分からないようにぼかすこと、その条件で書かせてもらった。
これは、自分が今年の春に借りた部屋の話です。
転職が決まって、別の街に引っ越すことになった。予算はあまりなくて、できるだけ家賃の安いところを探してました。
ネットの物件サイトで、ひとつだけ、相場よりずいぶん安い部屋を見つけたんです。
築年数の古い、木造のアパート。間取りのわりに、家賃が周りの半分くらい。
正直、うますぎる話だとは思いました。ただ、お金がなかったので、とりあえず内見だけしてみることにした。
案内してくれたのは、若い男性の不動産屋。
部屋自体は、思ったより悪くなかった。日当たりはいまいちでしたけど、掃除はされてて、傷も少ない。
ひとつだけ、気になったことがある。なんでこんなに安いんですか、と聞いたんです。
相手は少し間を置いてから、まあ、いろいろありまして、とだけ言った。
それ以上は、こちらも突っ込んで聞かなかった。安いのはありがたかったし、深く考えたくなかったんだと思います。
その週のうちに、契約しました。
引っ越したのは、四月のはじめ。荷物も少ないので、半日で片づいた。
最初の数日は、何もありませんでした。仕事も始まったばかりで、疲れて帰って、すぐ寝るだけの生活。
おかしいなと思い始めたのは、引っ越して一週間くらい経った夜です。
布団に入って、うとうとしてたら、隣の部屋からテレビの音が聞こえた気がしたんです。
うちは1Kで、隣の部屋なんてありません。仕切りの向こうは、台所だけ。
半分寝てたので、その日は気のせいだろうと思って、そのまま寝た。
次に気づいたのは、水の音でした。
夜中の二時ごろ、台所のほうで、蛇口から水が出てるような音がしたんです。じゃあ、という、細く流しっぱなしにしたみたいな音。
起きて見にいくと、蛇口は閉まってる。床も乾いてる。水道を止めて、また布団に戻った。
それから、ほぼ毎晩だった。
テレビの、人の話し声みたいな音。台所の水音。あと、足音です。
誰かが部屋の中を、ゆっくり歩いてるような音。畳をすって歩く、すり足みたいな音が、布団のすぐ横を通り過ぎていく。
明かりをつけると、何もないんです。誰もいない。音だけが、止む。
自分はひとり暮らしで、ペットもいません。心当たりが、ほんとうに何もなかった。
気持ち悪かったので、一度だけ、不動産屋に電話してみました。夜、変な音がするんですけど、と。
電話に出たのは、内見のときと同じ人。前の方も、似たようなことを言ってましたね、とだけ言って、あとは言葉を濁してました。
前の人、という言い方が引っかかったけど、それ以上は教えてくれなかった。
音には、だんだん慣れてきてました。慣れるしかなかった、というほうが近い。
変わったのは、五月の連休のときです。
部屋の収納が足りなくて、押し入れの上の、天袋を使おうと思ったんです。引っ越してから、一度も開けてなかった。
脚立にのって、天袋の戸を開けた。中は、ほこりだらけ。
奥のほうに、何か紙が一枚、貼ってあるのが見えた。
引っぱり出してみると、古いカレンダーでした。だいぶ日に焼けてて、紙がもろくなってる。
上のところに、知らない名前が、ボールペンで書いてあった。たぶん、前に住んでた人の名前。
そのカレンダー、めくられた状態で、ある月のページで止まってたんです。
その月のところに、何日かだけ、赤い丸が小さくつけてあった。何の印かは、分かりません。
日付の数字を見て、自分は、ちょっと手が止まった。今より、何年か前のもの。
それ以上は、見るのをやめました。
カレンダーは、たたんでゴミ袋に入れて、そのまま捨てた。気味が悪かったので、部屋には置いておきたくなかった。
音は、それからも続きました。テレビ、水音、足音。何も変わらない。
結局、自分はその夏に、その部屋を出た。仕事の都合ということにして、別のところへ移ったんです。
出ていくとき、不動産屋には、特に何も言いませんでした。あの音のことも、カレンダーのことも。
今でも、あの部屋で誰が何をしてたのかは、知らない。調べる気にも、なれなかった。
ただ、あのカレンダーが、なんであの月で止まってたのか。それだけは、たまに思い出します。