ダム湖の夜釣りで対岸に灯りも持たない人影、朝そこは道も橋もないと分かった話
Tさん(仮名・46歳男性・地元の建設会社勤務)から、サイトのフォーム経由で届いた話。釣りが趣味で、十年来通っている場所だという。仮名と、ダム湖の名前はぼかす条件で、書かせてもらった。
自分は釣りが好きで、休みの前の晩はだいたい湖に出る。
山あいにあるダム湖で、家から車で一時間ちょっと。週末になると、夜のうちから入って、朝まで竿を出す。
夜釣りは、もう十年くらいやってる。だから、その湖のことは、それなりに分かってるつもりだった。
あの夜も、いつも通りだった。
着いたのは夜の十時前。駐車スペースに車を停めて、荷物を担いで、いつものポイントまで歩く。
水際に折りたたみの椅子を出して、ランタンをひとつ点ける。竿を二本セットして、あとは待つだけ。
その日は、風がなかった。
水面が、鏡みたいに静かで。ランタンの灯りが、ゆらぎもせず、まっすぐ水に映ってた。
こういう凪の夜は、当たりが少ない。分かってたけど、まあ、そういう日もある。
十一時を過ぎたあたりで、向こう岸が、なんとなく目に入った。
湖を挟んだ、ちょうど正面。距離にして、二、三百メートルはあると思う。
そこに、人が、ひとり立ってた。
最初は、自分と同じで、夜釣りに来た誰かだろうと思った。
ただ、灯りを持ってない。ランタンも、ヘッドライトも、何もなしで、ただ立ってる。
こっちを、見てる感じがした。
暗くて、顔も格好も分からない。立ってる、というシルエットだけが、ぼんやり分かる。
気味が悪いというより、こんな時間にあんな所で何してるんだ、くらいの感覚だった。
自分は、自分の竿に目を戻した。
しばらくして、もう一度向こうを見たら、まだいた。同じ場所に、同じ姿勢で。
動かない。十分か、二十分か、こっちが見るたびに、ずっと同じ。
さすがに、少し落ち着かなくなって。竿を一本あげて、もう帰ろうかと思い始めた。
そのうち、空が白んできた。
明るくなってくると、向こう岸が、だんだん見えてくる。
それで、分かった。
人が立ってた、と思ってたあたりは、岸じゃなかった。
切り立った斜面が、そのまま水に落ちてる場所で、足を置けるような所がない。
道もない。橋もない。あそこに立つには、水の上に立つしかなかった。
朝になって、近くで作業してた人にも聞いてみた。あの正面の斜面って、どこかから行けるんですか、と。
行けない、と言われた。昔はあの下に集落があって、ダムができたときに沈んだ、という話は聞いたけど、それも、はっきりしたことは知らないらしい。
自分は、もう一度、湖を見た。
風は、まだ、なかった。水面は、朝も、鏡みたいに静かなまま。
なのに、湖の真ん中だけ。
そこだけ、波紋が、丸く広がってた。
何かが落ちたみたいに、輪が、ゆっくり外へ広がって、消えて、また真ん中から、新しい輪。
風もないのに。魚が跳ねた音も、聞いてない。
自分は、しばらく、それを見てた。
そのあと、片付けて、帰った。
あの場所には、まだ通ってる。釣りはやめられない。
ただ、向こう岸は、もう、あんまり見ないようにしてる。
あれが何だったのか、分からない。
分からないままで、いい気もしてる。