山小屋で一人だけ起きてた夜の話
Cさん(仮名・37歳男性・長野県内の林業関連会社勤務)から届いた話。
これは北アルプスの単独行の話で、4年前の夏のことなんですけど。
自分は長野で林業関係の仕事をしてます。山は20代の後半に始めて、30を越えたあたりから北アルプスのテント泊に通うようになりました。年に4、5回、長めの休みを取って1人で稜線を歩く。仲間とは行きません。自分のペースで決めたいタイプなので。
その夏は、お盆に合わせて5泊の縦走を組んでました。北の方から入って稜線を南下して、雲ノ平の方に抜けるルートです。
地図に載っていない小屋
3日目の昼、谷筋を1本外したところに地図に載ってない古い小屋がある、というのを思い出しました。前の年に山岳会の人と居酒屋で聞いた話。戦前から戦後に使われていたらしい木造の中継小屋で、いまは管理人もいない、登山道からも外れる、と。
時間に余裕があったので、寄ってみることにしました。
本来のテント場までを巻いて、午後2時頃に分岐へ。古い指導標が1本立ってて、字はほとんど消えてました。踏み跡は薄い。地形を読みながら30分ほど下ると、谷を見下ろす台地に小屋が見えました。
木造で、屋根に赤い色がうっすら残ってます。窓は半分が板で塞がれ、扉に鎖は掛かってない。
中に入ると、土間と、上がった先に板の間が一部屋。10畳くらいです。奥に2段の寝棚があって、毛布が1枚畳まれてました。テーブルと薪ストーブだけで、水は引かれてません。
日誌のような帳面が1冊、テーブルの隅に。最後のページの日付は2年前の9月。山岳会の若い人らしい署名と、また来ます、というメモ。
1泊することにしました。
シュラフを広げ、コッヘルで湯を沸かしてフリーズドライの夕食。日が落ちる前に水場の位置と明日の取り付きを確認して、7時過ぎにヘッデンを消し、寝棚の下段に入りました。
標高は2000メートルを越えてます。8月でも夜は冷える。外の風と、小屋がきしむ音を聞きながら、うとうとしてました。
足音
夜中、何時かは分からないんですけど、目が覚めました。
最初に聞こえたのは、板の間の廊下を歩く足音です。土間からこっちに向かって、ゆっくり、規則的に、靴のまま歩いてくる。登山靴のソールが板を踏む音でした。
自分は寝棚の下段で、シュラフを首元まで上げたまま動けません。誰かもう1人、別の登山者が遅れて着いて扉を開けたのかと一瞬思ったんです。
けど、扉が開く音を聞いてない。土間に荷物を下ろす音もしてない。
足音だけが、いきなり廊下の真ん中から始まってました。
足音は寝棚の前で止まりました。それから、しばらく何も聞こえなくなった。
息を殺して、目だけ開けてました。月が窓から入ってて、板の間の輪郭はうっすら見えるんですけど、足音の主は視界に入ってこない。位置的には、自分のすぐ横に立ってるはずなんです。
そのあと、小さな音がしました。
フィルムカメラのシャッターを切る音です。カシャッ、というあの音が、1回だけ、寝棚のすぐ横で。続けてフィルムを巻く、ジー、という小さな駆動音。
それから、また足音が始まって、今度は土間の方に戻っていきます。扉が開く音はしません。途中で、ふっと止みました。
そこからは、朝まで眠れなかった。シュラフから出ずに、5時の薄明かりまで動かないと決めて、ただ天井の板を見ていました。
足跡のない床
誰かのいたずらだと思いたかったんですけど、こんな谷筋の廃小屋に夜中に来る人間がいるとは思えません。動物なら足音のリズムが違う。
明るくなってから寝棚を出ました。
土間にも、板の間にも、足跡はありません。前夜に自分が歩いた跡だけが、うっすら埃の上に残ってました。
テーブルの帳面はそのまま。ただ、めくってみて気づいたことがあります。
最後のページの「また来ます」のメモの下に、日付のない1行がありました。
撮影終わり、という4文字です。
筆跡は、上のメモとは別の、古い癖のある字。前の晩に読んだときに見落としたのか、それとも。そこは自分でも自信がありません。
荷物をまとめて、朝のうちに小屋を出ました。下りながら何度か振り返ったんですけど、屋根の赤が木々の間に見えるだけで、誰の気配もありません。
あの小屋には、それから行っていない。山岳会の知り合いには話しましたけど、場所は教えてない。なんとなく、人を連れて行く場所じゃない気がしてます。
いまも山には登ります。ただ、フィルムカメラのシャッター音だけは、街で聞いてもまだ少し、肩が動きます。