磯釣りに通ってる岬で何度も見た人の話
Fさん(仮名・46歳男性・関東の建設会社で現場監督)から
これは自分が磯釣りに通ってる岬で、何度か見た人の話なんですけど。
自分は38、都内のメーカーで営業をやってる。家は神奈川で、嫁さんと小学生の子どもが2人。
趣味は磯釣りで、20代の半ばから続けてる。月に2回くらい、土曜の夜中に車を出して、伊豆の方の地磯に入る。
狙いはメジナとヒラスズキ。季節によって場所を変える。タックルは磯竿の1・5号、道糸はナイロンの3号、ハリスはフロロの2号。これが自分の基本の組み方だ。
通ってる磯のひとつに、伊豆半島の南東側にある地磯がある。
岬の付け根に当たる場所。観光地として知られてる断崖の岬の、北側に回り込んだところだ。
岬の本体は遊歩道の終点で柵が立ってる。その手前の集落から海沿いに細い踏み跡を20分くらい降りていくと、釣り人だけが入る磯場に出る。
地元のベテランから教わった場所で、平日は誰もいない。週末でも先客が1人いるかどうか、というくらい。
その磯に最初に入ったのは、たぶん8年か9年前。先輩のアングラーに連れて行ってもらった。
日の出の1時間前に車を停めて、ヘッドライトをつけて踏み跡を降りる。海面に出た頃には、ちょうど東の空が薄く明るくなり始める。
潮回りが良ければ、コマセを撒いて2、3投目で当たりが来る。場所自体はいい磯だ。
その磯の右奥、テトラが組まれてる手前に岩陰がある。
大きめの岩が2つ重なってて、人が1人立てるくらいの隙間。
自分があの岩陰の人を最初に見たのは、2回目に入った日の朝だった。
竿を出して30分くらい経った頃、ふと右側を見たら、岩陰に人が立ってた。
朝もやが少し残ってて、輪郭はぼやけてた。男か女かもはっきり見えない。
釣り具は持ってない感じで、こちらに体を向けて、ただ立ってるだけ。
先客がいたのかな、と思って、自分は軽く会釈した。返事はない。動きもない。
気まずくなって、自分はそのまま竿に視線を戻した。
3分か5分くらい経って、もう一度右を見たら、岩陰には誰もいない。踏み跡を上っていく音もしない。
磯場は石が動くので必ず音がするはず。なのに何も聞こえなかった。
先輩は左の方で釣ってて、何も気づいてないみたいだった。
自分はその時、変だな、と思っただけ。それ以上は気にしなかった。
次にあの岩陰に人を見たのは、半年くらい後の春先。
同じ磯に1人で入って、同じ位置にコマセを撒いてた朝だった。
前と同じ岩陰に、同じ立ち方で人がいた。
輪郭がぼやけて見えるのは朝もやのせいだと、その時もそう思ってた。声をかけてみた。先客でしたか、と。
返事はない。立ち姿勢のまま、こちらに体を向けてるだけ。
自分はそこで初めて、何かおかしい、と感じた。
竿を畳む準備をしながら、もう一度ちらっと見たら、岩陰には誰もいない。テトラの方にも、踏み跡の方にも、人影はない。
海の引きが強い時間帯で、波の音以外は何もしない。
その日は早めに上がった。車に戻って、地元の釣具屋に寄って、店主に岬の北の地磯のことを聞いてみた。
店主は自分の顔をしばらく見て、それから、あそこの岩陰のあたりだろう、と先に言ってきた。
自分は何も言ってないのに、岩陰の話だと分かってる。
あの磯に通ってる客で、何人か似たことを言ってる人がいる。そういう話を、その時に初めて聞いた。
岬本体の方が自殺の名所として知られてるのは、自分も前から聞いてた。年に何件かある、というのは地元では普通に話に出る話らしい。
ただ、地磯はそこから少し離れてる。直接その話と結びつけて考えたことは、それまでなかった。
店主は、そういうことかどうかは分からない、とも言ってた。
ただ、岩陰に人が立ってるのを見たという客が、何年か前から少しずつ出てる。それが店の中での共通認識になってる、と。
そこから自分は、その磯に入る回数を少しだけ減らした。
それでも年に3、4回は通ってる。岩陰に人が立ってる朝もあれば、立ってない朝もある。
立ってる朝の方が、少しだけ多いような気がする。気のせいかもしれない。声をかけることは、もうしてない。
去年の秋、一緒に磯釣りをやってる釣り仲間の1人を、初めてあの磯に連れて行った。
仲間は40代の男で、自分より釣り歴の長い人。
日の出の前に2人で踏み跡を降りて、自分はいつもの位置、仲間は左の張り出しに入った。
30分くらい経った頃、仲間がこちらに歩いてきて、右の岩陰に誰かいる、と小声で言った。
先客いたのか、と聞かれて、自分は黙って首を振った。仲間はそれで全部察したみたいだった。
その日はそのまま2人で上がった。車に戻ってからも、磯の話はしない。
帰りの道で、仲間がぽつりと、潮も悪かったしな、と言った。自分も、そうですね、とだけ返した。
あの磯には、いまも年に何回かは入る。
岩陰の方は、最初に視界に入れて、人が立ってたら竿は出さずに別の磯に移る。それを自分のルールにしてる。
釣り場としてはいい場所なので、できれば通い続けたい。
仲間とはあれから一度も、あの磯の話はしてない。誘うこともない。お互いに、分かってるんだと思う。