夕方のスーパーで会ったおばあさんの話
Nさん(仮名・44歳女性・関西で事務のパート勤務)の話。共通の知人を介して連絡をもらい、メールで2往復ほど話を伺った。仮名と地名ぼかしを条件に承諾をいただいている。
去年の秋のこと。近所のスーパーで会ったおばあさんの話だ。
私は千葉の住宅地に住んでいて、夫と6歳の娘との3人暮らし。
娘は保育園の年長で、平日は朝8時半から夕方5時半まで預けてる。私は専業主婦。午前中に家のことを済ませて、3時半過ぎに自転車で出る。それが平日の流れだった。
スーパーは家から自転車で7分くらいの中規模の店。鮮魚と冷凍がそこそこ揃ってる。水曜と金曜は、お刺身の半額シールが早めに貼られる日なんです。
4時を少し過ぎたくらいに行くと、ちょうどシールを貼り終わったところで、品揃えもまだ残ってる。それで自然と、その2日が私の固定日になっていた。
5時前に出れば、保育園のお迎えにも間に合う。
そのおばあさんに最初に気づいたのは、9月の半ばくらい。
鮮魚コーナーの前で、半額シールの貼られたサバを見比べていたら、横に細身の年配の女性が立っていた。
70代の後半くらい。薄い水色のカーディガンに、ベージュのズボン姿。手提げのカゴには何も入っていなくて、こっちと同じくサバを見てる。
私は会釈をして、1歩横にずれた。おばあさんも小さく頷いて、それで終わり。
次の週の水曜にも、同じ場所で会った。同じ水色のカーディガンで、カゴに豆腐が1丁だけ入ってる。
その次の金曜にも、また顔を合わせたんです。私が来るたびに、もう先に立ってる。
そのうち気づいた。毎週水曜と金曜の4時過ぎに、必ずこの人がいる。常連さんなんだろうな、と思ってた。会釈の関係、というのが1番近い。
違和感が出たのは、10月の半ばの水曜。
サバを見たあとに冷凍コーナーへ移って、餃子と冷凍ブロッコリーをカゴに入れた。
冷凍庫の扉をしめて振り向いたら、私のカートのすぐ横に、あのおばあさんが立ってたんです。
私のカートに片手を軽く添えて、もう片方の手でカゴを持ってる。半歩、私の方に体を寄せていた。
私は驚いて、「すみません」と小さく言った。おばあさんは私の顔を見て、にこっと笑う。
それから、私のカートの中を一度見て、また私の方を向いて、「ゆりちゃん、元気にしてる」と言った。
娘の名前は、ゆり。
私はとっさに何も言えなかった。
娘はその時、保育園にいる。スーパーには連れてきていない。カートの中には食材しか入っていない。財布も鞄も出してないし、子どもの写真をぶら下げてるわけでもない。
そのおばあさんには、自分の名前すら言ったことがない。
おばあさんは私の返事を待たず、カートから手を離して、ゆっくりお肉のコーナーの方へ歩いていく。
私は冷凍コーナーの前で、しばらく動けなかった。冷気が足元から上がってきて、靴下のなかが冷たかったのを覚えてます。
レジを済ませて、駐車場まで行ってから、私は店に戻った。
サービスカウンターで店長を呼んでもらって、「毎週水曜と金曜の4時過ぎに、薄い水色のカーディガンを着た細身のおばあさんがいませんか」と聞いた。
店長はレジのパートさんにも確認してくれて、3人とも、そのお客さんに心当たりがない、と言う。常連でその年代の女性は他にいる、ただし服装も背格好も違う、とのことだった。
店長は親切な人で、念のため防犯カメラも確認してくれた。事務所の小さなモニターを一緒に見せてもらう。
映像の中の私は、確かに冷凍コーナーの前にいる。冷凍庫の扉を開けて、餃子を取り出して、扉をしめて、振り向く。
私の横には、誰もいない。私のカートにも、誰の手も添えられていない。
独りでカートの取っ手を見つめて、しばらく動かないでいる映像が、ただ流れていた。
店長は何も言わない。私も「ありがとうございます」とだけ言って、家に帰った。
夜中に夫にだけ話したんですけど、夫は、勘違いか、似た人を毎週見てたんじゃないか、と言ってた。
私もそうかもしれない、と思う。映像にあの人がいなかったのは、本当のこと。
次の週の水曜と金曜は、買い物の時間を1時間早めた。3時過ぎに行ったんです。
鮮魚コーナーに、おばあさんはいない。次の週も、その次の週も、いない。
私はそのまま4時台の買い物をやめて、いまは3時前後に行ってる。
ママ友にも一度だけ、それとなくこの話をしたんです。映像に映ってない、というところまで言ったら、「それ夢じゃない」と笑われた。
私もそう思おうとしてる。最近うちは下の子を考え始めてた時期で、たぶん私は色々と気を張ってたんだと思います。
スーパーの冷気と、レジの音と、半額シールの色。そういう細かいものが頭の中で混ざって、知らない誰かの顔を作ってしまったんだろう。そう思おうとしてる。いまも、思おうとしてる。
ただ、「ゆりちゃん元気にしてる」と言われたあの声だけは、はっきり覚えてます。
低くもなく、高くもない、普通のおばあさんの声。何度思い返しても、夢の中の声には聞こえない。