職場の先輩が退職までの三ヶ月、毎朝私の机に紙を一枚だけ置いていった話
Mさん(仮名・32歳女性・関東近郊の中堅メーカー勤務)から、サイトの問い合わせフォームで届いた話。メールで五往復ほど追加で聞かせてもらった。仮名と、会社名や所在地をぼかす条件で承諾をいただいている。
怖い話かどうかは、自分でもよく分かりません。ただ、四年たっても引き出しに入ったままなので、一度どこかに書いておきたくて。
私は事務です。工場と本社が同じ敷地にある、そんなに大きくない会社で、総務と経理を半分ずつみたいな仕事をしてます。事務所にいるのは十五人くらい。
Nさんは、私が入った時からいた先輩でした。当時で五十代の半ば、女性です。
仕事はきっちりしてる人。でも堅苦しくはなくて、お昼はいつも自分で作ったお弁当でした。私が伝票を間違えて落ち込んでる時に、黙って飴をくれるような人。
悪い印象は、ひとつもないんです。今でも。
その人が辞めると聞いたのが、私が入って五年目の秋。定年より少し早い、自己都合の退職だと聞きました。理由までは知りません。
最終出社日まで、三ヶ月ありました。
始まったのは、辞めると聞いた次の週です。
朝、出社したら、私の机にコピー用紙が一枚。手書きのノートをコピーしたやつで、罫線ごと写ってました。字はNさんのもの。
内容は、月末の締めの手順でした。うちは独特なやり方をしてる部分があって、たしかに社内のマニュアルには載ってない話。
ありがたかったです。お礼を言ったら、まあ、いろいろあるからね、と笑ってました。
次の日も、一枚。その次の日も。
Nさんは私より早く来るので、私が着いた時にはもう置いてある。渡す時に声をかけられたことは、一度もなかったと思います。
二週間くらいは、全部が仕事の話でした。備品をどこに頼むか、あの取引先は電話よりファックスのほうが早い、とか。細かいけど、たしかに役に立つやつ。
その頃はまだ、辞めるまでに全部教えていこうとしてくれてるんだと思ってました。実際そうだったのかもしれないですし。
少し違うな、と思ったのは三週目です。
その日の紙には、人の名前が並んでました。
工場の人と、事務所の人。名前の横に、時間らしい数字が書いてあります。八時十二分。八時四十分。そんな感じ。
意味が分からなくて、その日は聞けませんでした。
次の日の紙は、また普通の業務内容に戻ってて。だから、何かのメモが一枚だけ混ざったんだろう、と思うことにしたんです。
でも、その手の紙が、だんだん増えていきました。
誰が何曜日に休みを取りやすいか。誰と誰が同じ日には休まないか。喫煙所に行く順番。駐車場のどのあたりに停めるか。
書き方は淡々としてます。悪口みたいなものは一切ない。ただ事実だけが、箇条書きで並んでる。
紙の端はいつも少し斜めでした。それを見るたびに、朝いちばんに一枚だけコピーを取ってる後ろ姿を想像してしまって。
一枚だけ、数字しか書いてない紙もありました。四桁の数字が縦に十個くらい。あれが何だったのかは、今も分かりません。
一度だけ、聞いてみたんです。これって何ですか、って。
Nさんは、引き継ぎだよ、と言いました。
私、後任じゃないんです。Nさんの仕事は別の部署から異動してくる男性が引き継ぐことになってて、それはもう決まってました。
それを言ったら、うん、知ってる、と。それだけでした。
怒ってる感じでも、ごまかしてる感じでもない。いつものNさんです。
自分の名前を見つけたのは、十一月に入ってからだったと思います。
他の人と同じように、名前と、時間。私の出社は八時三十五分くらいだったので、たぶんそれに近い数字が書いてありました。
たぶん、というのは、ちゃんと見てないから。見た瞬間に裏返して、そのまま引き出しの奥へ。
怖いというより、見てはいけないものを見た気がして。
あとで、同期の子に聞いてみました。Nさんから何かもらってる?って。
誰ももらってませんでした。事務所の人も、工場の人も。渡されてたのは、たぶん私だけです。
それでも紙は、毎朝ありました。十二月に入っても、変わらず一枚ずつ。
送別会は普通にありました。お店を予約したのは私で、花束を渡したのも私。Nさんは泣いてたし、他の人も泣いてて、ちゃんといい送別会でした。
紙のことは、誰にも言ってません。
最終出社日の夕方に、Nさんが私の席まで来ました。
手にノートを持ってて、あと一枚あるんだけど、これは渡せないから、と。
笑ってました。冗談を言う時の顔ではなかったです。
それだけ言って、ノートを鞄に入れて、帰っていきました。
連絡先は交換してあります。年賀状も一度出しました。返事はまだ来てない。
後任の男性は、今も普通に働いてます。その人が紙をもらったという話は、聞いたことがない。
紙は、全部で六十枚くらい。今も引き出しの奥に、輪ゴムでまとめて入れてあります。
捨てられないし、読み返してもいない。
渡せなかった一枚に何が書いてあったのか、私は知りません。
今も、知らないままです。