出張先の小料理屋で会った常連の話
Hさん(仮名・42歳男性・関東の中堅商社で営業職)から
これは3年くらい前、私がまだ仙台方面の取引先を担当してた頃の話なんですけど。
私は精密部品の営業をしてます。本社は関東で、東北エリアもひとりで持ってたんです。
仙台に大きな取引先が2社あって、2、3ヶ月に一度のペースで出張に行ってました。
火曜に新幹線で入って、水曜の夕方まで打ち合わせと工場見学、木曜の午前に営業所に顔を出して帰る流れ。直行直帰でいいんですけど、現地の所長がうるさい人で、必ず一晩は泊まれと言われてます。
泊まりは仙台駅東口のビジネスホテル。出張精算の上限内に収まるので毎回そこを使ってました。
夜は接待が入る日もあれば、何もない日もある。何もない日は、ホテルの近くで一人で軽く飲んで寝る、というのが私の決まり。
その小料理屋は、駅前の大通りから一本入った路地の奥にあった。間口が狭くて、暖簾の屋号もかすれてる。
最初に入ったのは、隣のチェーンの居酒屋が混んでて入れなかった、というだけの理由なんです。
引き戸を開けるとL字のカウンターが8席ほど。女将さんと息子らしき若い板さんで回してた。
お通しの茄子の煮びたしがやたら旨くて、次に仙台に来た時も自然と足が向きました。
3回目か4回目から、カウンターの奥にいつも同じ老人が座ってる。
70代半ば、ベージュのジャンパーで、熱燗を1合だけ2時間かけてゆっくり飲んで帰る人。女将さんとぽつぽつ話す程度で、私と老人の間には1席か2席空いていて、目が合うと小さく会釈する、というくらいの距離感だった。
そのうち女将さんから、あちらは長いお馴染みさんで、と紹介された。
老人は軽く頭を下げて、関東からですか、お仕事ですか、と短く聞いてくる。
私は、はい、とだけ答えたんです。出張の話を一見の客にする趣味はありませんし、向こうも踏み込んできません。
会釈の関係、というのが一番近いと思います。
その日は、通うようになって一年目の冬だった。打ち合わせが長引いて、店に着いたのが9時を過ぎてたんです。
カウンターには老人が一人だけで、女将さんは奥で洗い物、板さんは買い出しに出てるとのこと。客は実質、私と老人の二人きりだった。
老人が、徳利をこちらに少し傾けて、一杯どうですか、と言ってくれました。私はお猪口を借りて受けます。
それで少しだけ世間話に。仙台は何度目ですか、寒くないですか、というような当たり障りのない話で、私は2、3ヶ月に一度来てます、とだけ答えてます。
少し沈黙があって、老人がぽつりと言いました。
お子さんは、男の子ですか。
私は、はい、と答えました。
家族の話はそれまで一度もしてません。指輪はしてますから既婚なのは分かるかもしれない。ただ、子どもの性別までは、その場で出る話ではないと思います。
老人はもう一度ゆっくり熱燗を口に運んでから、続けた。
お名前は、ハルトくんですか。
息子の名前は、確かにハルトです。当時は小学校の2年生。
私はその老人に、名前を一度も言ってません。財布も鞄も出してませんし、家族の写真を見せたわけでもありません。携帯はテーブルの上。画面はロックされたまま。
笑ってごまかそうとしたんですけど、声がうまく出ない。
老人は私の顔を見ずに、徳利を見たまま、もう一つ言いました。
ご出身は、群馬の方ですか。
私の出身は群馬の県北の町。これも、その店では一度も話してません。仙台で群馬の話をする理由がありません。
私は、何も答えませんでした。
老人もそれ以上は何も言わずに、徳利の残りを飲み終わって、お勘定、と女将さんに声をかけて、いつも通り静かに帰っていく。
帰り際にこちらに会釈して、お気をつけて、とだけ言いました。声に変なところはありません。普通の、年寄りの声でした。
外に出ると、駅前のアーケードが半分電気を落としていて、風が冷たかった。
ホテルまで歩く10分のあいだ、何度も振り返りました。後ろには誰もいない。
その夜、妻に電話はしませんでした。子どもの名前を当てられた、と言ったところで、向こうも返事に困る。テレビをつけたまま寝ました。
翌朝は営業所に顔を出して、午後の新幹線で帰った。
車内でずっと考えてました。誰かが私の身辺を調べてあの店に伝えた、なんてことが起きるとは思えない。
私はその店ではただの一見に毛が生えた程度の客で、調べる動機もありません。
性別、名前、出身。三つ続けて当てられた、というだけ。
本社に戻ってから、上司に頼んで仙台の担当を若手に引き継ぎました。表向きは後輩の育成、ということに。
仙台の取引先は今でも継続してますけど、私自身は出張先を東北から外した。それ以来、仙台には行ってません。
あの店がいまもあるのかどうかは、知らない。あの老人がいまもあそこに座ってるのかどうかも、知りません。あえて調べてないだけかもしれない。
結局、何があったのかは、いまも分かりません。
怪我をしたわけでもない。誰かに何かをされたわけでもありません。子どもの名前と出身地を当てられた、ただそれだけ。
それだけのことなのに、いまだに東北方面の出張の話が出るたびに、別の担当者を立ててもらってます。
理由は、誰にも話してません。話したところで、話の終わりがないんです。