アパートの隣に住んでた人の話
Yさん(仮名・34歳女性・名古屋市内の食品メーカー勤務)からSNSのDMで届いた話。DMで5往復ほど追加取材させてもらった。仮名と地名ぼかし条件で承諾をいただいている。
これは5年くらい前、私が名古屋に転勤になったばかりの頃の話。
当時、私は28歳。入社して5年目に、初めての転勤辞令が出た。
配属先は名古屋の支店。入居する社宅もなく、自分でアパートを探すことになった。
会社の借り上げ枠で出る家賃補助は80000円まで。その範囲で、名古屋駅から私鉄で30分くらいのところに、築20年の木造2階建てのアパートを見つけた。
1階に3部屋、2階に3部屋の小さい建物。私の部屋は2階の真ん中だった。
引っ越したのは4月の頭。両隣にも人が住んでいるのは、玄関前の表札と郵便受けの名前で分かっていた。
挨拶に行こうかどうか少し迷った。最近は単身の女性は挨拶に行かない方がいいと友達から聞いていて、結局そのまま済ませてしまった。両隣ともいちおう男性の名字。
最初に違和感があったのは、引っ越して1週間目の朝だった。
出勤のために玄関を出てドアの鍵を閉めていたら、隣の部屋のドアもちょうど開いて、男の人が出てきた。
40代の半ばくらい。痩せていて、グレーのジャージの上下を着ている。
私は会釈だけして、階段の方へ歩いた。男の人は何も言わずに、私の後ろから階段を降りてくる。
郵便受けを覗いて、何も入っていないのを確認して外に出ると、男の人もそのまま外に出てきて、私と同じ方向に歩き始めた。
1言も話さずに、半歩くらい後ろをついてくる感じ。
30メートルほど先の角で、男の人はコンビニに入っていく。私はそのまま駅まで歩いた。
たまたまだろう、と思っていた。実際、たまたまだったんだと思う。その日は。
次の日も、ほぼ同じことが起きた。
私が玄関を出ると、隣のドアが開いて、同じジャージの男の人が出てくる。階段を一緒に降りて、コンビニまで一緒に歩く。
私が朝にどこを歩くか、知ってるみたいな出方なんです。
3日目も、4日目も、同じ。
週末、土曜日の朝はゆっくり寝るつもりで8時くらいまで布団にいた。それでも、私が顔を洗って玄関を出た瞬間に、隣のドアが開いた。
その頃から、夜中に隣の部屋からテレビの音が漏れることが、何度かあった。
台詞までは聞き取れない、低い音だけ。木造の薄い壁ごしに、布団の中まで届いてくる。
私が寝返りを打つと、隣の音もぴたっと止まることがあった。気のせいだったかもしれない。
そこからは、外で会う頻度がだんだん増えていく。
残業で夜の10時近くに帰ってきた日。玄関の前の廊下で、男の人がポストの前に立ってこっちを見ていたこともあった。
郵便受けを開けてる素振りでもなくて、ただこちらの足音を聞いて出てきたように見える。
私が会釈をすると、男の人も小さく頷いて、自分の部屋に入っていく。
一度、ゴミ出しの朝に、男の人と階段で鉢合わせしたこともあった。
私が燃えるゴミの袋を持って降りていたら、男の人が下から登ってくる。すれ違うときに、男の人がぼそっと、今日はいつもより早いね、と言ってきた。
私はとっさに、おはようございます、とだけ返して、そのまま下まで降りた。心臓が、ゴミを置く頃にはまだ鳴っていた。
私の出勤の時間を覚えられている、と気づいたのはそこ。
そのあとから、できるだけ家にいる時間をずらすようにした。
残業がない日も会社の近くのカフェで時間を潰してから帰ったり、休日に出かけるときは始発に近い電車で外に出たり。
それでも、月に2、3回は、玄関を出るタイミングが偶然のように重なる。
私が偶然だと思っていただけで、向こうにとってはたぶん偶然ではなかったと思う。
夏の終わり頃、私は会社にお願いして、別のアパートに引っ越した。理由は適当に、近くで工事が始まってうるさいから、ということにした。
隣の人については誰にも話していない。話しても、それだけで何か事件があったわけでもないので、上手く伝えられる気がしなかった。
新しいアパートはオートロックのマンションで、駅の反対側。引っ越してから、夜にぐっすり眠れるようになった。
その後、私は名古屋には3年いて、東京に戻ってきた。あれから何年も経っている。
隣の男の人がその後どうしたのかは、分からない。たぶん、私が出ていったあともあのアパートにいたんじゃないかと思う。
つい去年のこと。出張で大阪に行ったときに、ホテル近くのコンビニで似た背格好の男の人を見た。
グレーのジャージではなくて、普通のシャツ。年齢ももう少し上に見えた。たぶん別人だと思う。
たぶん、というのは、ちゃんと顔を見ていないから。
レジで会計をしている横顔がちらっと視界に入った瞬間に、足が動かなくなった。そのままお茶のペットボトルを持ったまま、雑誌のコーナーで5分くらい立っていた。
私が動けるようになったときには、その人はもう店を出ていた。
あれから、似たような背格好の中年の男性が視界に入るたびに、いまでも一瞬、足が止まる。
コンビニでも、駅のホームでも、会社の廊下でも、同じ。
本人ではないと頭では分かっている。それでも、体の方が先に反応する。
あの人が誰だったのか、どういう人だったのか、いまも私は何も知らない。
知らないまま、こうやって、いまも体だけが覚えている。