母の実家の集落で、軒先に吊るしてはいけないものの話
Sさん(仮名・54歳・元郵便局員)から、サイトの体験談フォーム経由で届いた話。2026年3月に最初の投稿があり、その後メールで5往復、4月には電話で1時間ほど追加取材させてもらった。仮名・地名のぼかし・一部描写の削除を条件に掲載の承諾をもらっている。
私は子どもの頃、毎年お盆になると、母の実家がある四国の山あいの集落に連れていかれた。
父の運転で、本州側の港からフェリーに乗り、降りてからさらに車で2時間ちょっと。山道に入ってから1時間、対向車もほとんど来ない細い林道を上りきると、谷あいに十数戸の家が見える。それが母の実家のあった集落。
私が小学校に上がる前から中学に上がるまでの、6、7年くらいの話だ。
集落には祖父母と、母の兄夫婦が住んでいた。家は古い農家で、土間と囲炉裏のある、いかにも田舎のばあちゃん家、というやつ。風呂は薪で沸かす五右衛門で、トイレは家の外。
子どもの私には、それが新鮮で、毎年それなりに楽しみではあった。川に魚がいて、夜は星がやけに多くて、近所の家のおばあさんが菓子をくれた。本州側の団地で育った私には、それだけで2週間を退屈せずに過ごせる場所だった。
夏に祖父母の家へ向かうのは、毎年8月の11日か12日。父は会社の盆休みに合わせて運転をして、荷物は段ボールに2、3箱。母方の祖父母への土産で、父は気を遣って、その時期だけ高めの缶ビールを箱で買っていた覚えがある。
ただ、ひとつだけ、子ども心に妙だなと思っていた習慣があって、それが今でも頭の隅に残っている。
お盆の期間だけ、集落の家のいくつかが、軒先に赤い布を吊るしていたのだ。
布、と書いたが、正確には布なのかどうか分からない。色は赤というより、赤茶けた、古い血のような色をしていた。長さは大人の腕ほどで、幅はせいぜい手のひら2つ分。形は不揃いで、家によって少し違う。
軒先の、ちょうど人の頭の高さくらいに、麻紐のようなもので結びつけられていた。
うちの祖父母の家にも、毎年それが吊るされていた。
吊るしている家と、吊るしていない家がある。子どもの私が数えたかぎりでは、十数戸のうち、半分くらいの家が吊るしていた。集落の北側、山に近い側に多くて、谷側にはあまりなかった。
初めて気づいたのは、たぶん小学2年か3年のとき。私はその布を指さして、母にあれ何、と聞いた覚えがある。
母は一瞬、嫌そうな顔をした。
あれは、おじいちゃんが毎年やる、あんたは触らんでいい、とだけ言った。
子どもにとって、大人が嫌そうな顔をして話を切り上げるものほど気になるものはない。私は祖父にも聞いた。祖父は黙ってタバコを吸っていた。母の兄、つまり伯父にも聞いた。伯父は、お前は気にせんでいい、来年もここに来たかったらな、とだけ言って笑った。
その笑い方が、今思うと笑いではなかった。
口元だけ笑っていて、目は私を見ていなかった。
子どもの私は、そういうものだと思って、それ以上は聞かなくなった。
ただ、もう一つだけ覚えていることがある。お盆の入りの日、つまり13日の昼、祖父が必ず集落の奥のほうへ出かけていた。手ぬぐいを首にかけて、片手に小さな風呂敷包みを下げて、ひとりで歩いて出て行く。出ていく方向は、集落のさらに奥、山の方。
戻ってくるのは夕方で、戻ってきたときには風呂敷包みは持っていなかった。代わりに、軒先に赤い布が吊るされている。
つまり、布を吊るす作業は、祖父が出かけて戻ってきた直後にしていたということになる。
これは、子どもの私が直接見たわけではない。あとから振り返って、そうだったな、と気づいた程度の記憶。だから取材中、Sさんもこの部分は「断言はできない」と前置きしてくれた。
集落のお盆は、よその地域とは少し違っていた。
盆踊りも、提灯を出して迎え火を焚くのも普通にあるのだが、13日の夕方から16日の朝までの間、子どもは絶対に外に出してもらえなかった。日が落ちてからの外出が禁止、というレベルではない。日中も、家の敷地から一歩も出るな、と言われていた。
これは集落全体のルールらしくて、近所の同じ年頃の子と遊ぶこともできない。お盆の3日間は、家の中で本を読んだり、土間で猫と遊んだりして過ごす。
そのかわり、お盆が明けた17日の朝は、子どもたちは一斉に外に放たれて、川で泳いだり山に虫採りに行ったりする。
17日の朝、集落を歩くと、軒先の赤い布はもう外されていた。
祖父はその朝も、まだ薄暗いうちに、また風呂敷包みを下げて、奥のほうへ歩いていく。今度は風呂敷の中に、外したばかりの布が入っているのが、子どもの私にも何となく分かった。
外された布がどこに行くのかは、分からなかった。聞いても誰も答えなかった。
これが私の幼少期の、お盆の風景だった。
一度だけ、いとこと一緒に、集落の奥の方を見に行ったことがある。お盆の前、まだ8月の12日だったと思う。子どもなりに、赤い布がどこから来るのかが気になっていた。
奥の方には、神社というよりは祠に近い、小さなお堂があった。ただ、そのお堂の手前で、いとこが急に立ち止まって、ここから先は行ったらいかん、と言った。
なんで、と私が聞いても、いとこは答えなかった。3つ下のいとこが、私より集落のことをよく分かっている、というのは妙な話だが、その時の彼女の顔は本気だった。
私たちはお堂の手前で引き返した。あとで思い返しても、お堂の屋根の様子しか覚えていない。色が、軒先の布と、よく似た赤茶けた色をしていた。
違和感らしい違和感を覚えたのは、小学校5年生か6年生の夏だ。
その年もいつものように、お盆の3日間は家の中で過ごしていた。15日の夜、私は寝苦しくて、深夜の2時か3時くらいに目が覚めた。蚊帳の中で寝ていた。隣には3つ下のいとこが寝息を立てていて、奥の間からは祖父のいびきが聞こえた。
私は便所に行きたくて、蚊帳をくぐった。
家の中の便所は、土間の奥の、外に近い場所にある。半分外みたいな構造だ。
用を足して戻る途中、土間に出る引き戸の隙間から、外の様子が見えた。
見えたというか、月が出ていて、軒先のあたりが薄ぼんやり明るかった。
軒先に、人がいた。
背の低い、子どもくらいの背丈の人影が、うちの家の軒先の赤い布に手を伸ばしていた。
触っているのか、確かめているのか、外そうとしているのかは分からない。ただ、片方の手をゆっくりと布に当てて、しばらくそのままじっとしていた。
子どもの遊びにしては、時間が遅すぎた。
私は息を止めて、引き戸の隙間から、その様子を見ていた。
10秒か、20秒か。長くは見ていない。
その人影は、すっと手を引いて、布の前から離れた。離れた瞬間、軒下の闇に溶けるように消えた。歩いて立ち去ったのではなく、その場で気配ごと無くなった、というのに近い。
私は怖くなって、走って蚊帳に戻った。
戻ってからも、しばらく寝つけなかった。蚊帳の天井を見ながら、あれは何だったのか、と何度も考えた。子どもくらいの背丈、と思ったが、本当にそうだったのかは、自信がない。月明かりだけだったし、引き戸の隙間も狭かった。
ただ、姿の輪郭ははっきり覚えている。頭の部分が、首から上が、私の知っている人間の頭の形と、少し違って見えた。具体的にどう違ったかと言われると、うまく言えない。Sさんも取材中、「うまく言葉にならんのです」と何度か言っていた。
朝、祖母にそのことを話した。
祖母は、私の話を最後まで黙って聞いて、それから、布が外れてなかったやろ、と聞いた。
外れてなかった、と私が答えると、祖母は安心したような顔をして、外れんかったらええ、と言った。
外れたらどうなるのか、と聞いたら、祖母はもう答えなかった。
祖母はこういう話を、嫌がるでも面白がるでもなく、淡々と受け止める人だった。怖がる素振りも、たしなめる素振りもない。ただ、外れんかったらええ、と短く言うだけ。
私はそのとき、祖母も、あれが何かを知っているのだ、と理解した。
その夏が、私が集落でお盆を過ごした最後の年だった。
翌年、祖父が亡くなった。心筋梗塞だったらしい。集落の家の土間で倒れていたのを、伯父が見つけたのだと聞いた。
葬式は集落で行われたのだが、その後、母は実家にあまり行かなくなった。中学に上がってからの私は、夏休みも部活で忙しかったし、集落に行く理由もなくなっていった。
祖父の葬式の数年後、母にぽつりと聞いたことがある。なんでお盆に行かなくなったのか、と。母は、もう行かんでええの、とだけ言って、それ以上は話さなかった。
伯父は祖父の家を継いだが、子どもがいなかった。
大人になって、就職して、結婚して、子どもができて、集落のことはほとんど思い出さない時期が長かった。
30代の終わりに、母が亡くなった。
葬儀のあと、形見分けで、母が大切に取っておいた古い箱が出てきた。中には、母の若い頃の写真や、祖父母の手紙、それから、布の切れ端が入っていた。
赤茶けた、古い血のような色の布だった。
長さは10センチもない。私はそれを見た瞬間に、集落の軒先に吊るされていた、あの布だと分かった。
母がなぜそれを持っていたのか、誰に聞いても分からなかった。父も初めて見たと言った。父方の親戚はもちろん知らない。母の兄、つまり伯父は、すでに体調を崩していて、まともに話ができる状態ではなかった。
箱の中には、布の切れ端と一緒に、白い和紙が一枚入っていた。和紙には、墨で文字のようなものが書かれていた。文字、と書いたが、読める文字ではない。横棒と縦棒が組み合わさった、記号のような書き方で、私には判別できなかった。
取材中、Sさんはこの和紙を実際にスマートフォンで撮影して、画像を送ってくれた。私のほうでも、知人の民俗学を専攻していた研究者に、ぼかし加工した状態で見せた。研究者は、これは確かに見たことのない記号だ、地域の祭祀文書の可能性はあるが、どこの地域のものかは分からない、と答えた。掲載許可の関係で、画像そのものは載せていない。
私はその切れ端を、母の遺品の他のものと一緒に、桐の箱にしまった。それきり、長いこと、開けていない。
取材ではここで一度、Sさんに区切りを入れてもらった。布の切れ端の話をしたあと、Sさんはしばらく言葉に詰まっていた。電話の向こうで深く息をする音が聞こえて、私のほうも、無理に続きを聞かなかった。
後日のメールで、Sさんは続きを書いてくれた。
母が亡くなって10年ほど経ったとき、私は思いついて、母の実家の集落に行ってみることにした。50を過ぎていて、子どもも独立して、時間に余裕ができた頃だ。
伯父はもう亡くなっていた。集落の家を継いでいた伯父の妻、つまり伯母は、ひとりで本州側の老人ホームに移っていた。家は人が住まなくなっていた。
私は伯母に連絡をして、集落の家を見に行きたい、と告げた。
伯母は少し黙って、それから、夏は行かんといてや、と言った。
夏以外なら、好きにしてええよ、鍵は近所の村田さん、これも仮名、に預けてある、と言われた。
私は10月に、集落を訪ねた。
30年以上ぶりだった。林道の途中で何度か車を停めて、降りて確認しないと道が分からないくらい、景色が変わっていた。集落は、私の記憶よりさらに小さくなっていた。十数戸あったはずの家のうち、人が住んでいるのは7、8戸しかないように見えた。
家のいくつかは屋根が落ちていた。空き家のままになって、もう何年も人の手が入っていない様子だった。郵便局員時代の癖で、私はつい、家の郵便受けを見て回った。郵便受けが朽ちかけている家、ガムテープで塞がれている家、最近のチラシが入っている家。住人の有無は、それで大体分かる。
10月で、もちろんお盆の時期ではないので、軒先に布を吊るしている家はなかった。当たり前だ。ただ、軒先の梁に、麻紐の結び目だけが残っている家が、いくつかあった。布を吊るすために使われていた紐の、結んだ跡。
祖父母の家は、思ったよりも荒れていなかった。村田さんの奥さんが時々風を入れてくれていたらしい。村田さんの家は集落の入り口に近いほうで、行きがけに鍵を受け取った。村田さんの奥さんは70近い人で、私が祖父の孫だと名乗ると、よう来たねえ、と言って、麦茶と漬物を出してくれた。
世間話の流れで、私は赤い布のことを、できるだけさりげなく聞いてみた。村田さんの奥さんは、麦茶を一口飲んで、それから、あんた、本州の人やねえ、と一言言った。
そして、もう吊るしとる家もほとんど無いんよ、若い人が分からんし、年寄りも吊るし方を覚えとる人がもう少ないけえね、と続けた。
あれは何のためなのか、と私が聞くと、村田さんの奥さんは少し困った顔をして、私もよう知らんのよ、ただ、お盆に戻ってくる人を、家の中に入れんようにする、とだけは聞いとる、とだけ答えた。
戻ってくる人、というのが、亡くなった先祖のことなのか、別の何かなのかは、聞いても分からなかった。聞きすぎてはいけない気もした。
軒先には、何も吊るされていなかった。
私は家に上がって、土間や囲炉裏や、奥の間を見て回った。子どものとき寝ていた部屋に、当時の蚊帳がそのまま畳まれて押入れに入っていた。
祖父母の家の中も、ひととおり見て回った。祖父が使っていた机の引き出しに、古いノートが何冊か残っていた。ほとんどは農作業の記録で、何月何日に何を植えた、何を収穫した、という記録。読んでもあまり面白くない内容だった。
ただ、いちばん古いノートの最後のページに、こういう一行が書いてあった。「今年の盆も、無事に済む」と。
無事、という言葉が、引っかかった。
その夜は集落の唯一の民宿に泊まった。民宿の主人は70代の男性で、私の祖父のことを覚えていた。私が祖父の孫だ、と告げると、主人はああ、と言って、ビールを一本、サービスにつけてくれた。
夕食のあと、私は思い切って、軒先の赤い布のことを聞いてみた。
主人は箸を止めた。
あんた、それを覚えとるんか、と聞き返してきた。
私が、子どものときに毎年見ていた、と答えると、主人はしばらく黙って、それからゆっくり、こう言った。
あれは、戻ってこんようにするためのもんや、と。
主人は箸を置いて、湯のみのお茶をすすった。それから、もう少しだけ話してくれた。集落の奥のほうに、お堂のさらに奥に、誰も入らない場所がある。昔から、そこに一年に一度、お盆の時期に、何かが戻ってこようとする。集落の人間は、それを家の中に入れないために、軒先に布を吊るす。布の色は、その「何か」が嫌う色だと聞いている、と。
布の材料は、と私は聞いた。
主人は答えなかった。ただ、ここの集落の人間は、長い時間をかけて、それを作る材料を確保してきた、とだけ言った。
誰が戻ってこないように、と私が聞くと、主人はそれ以上は答えなかった。ただ、最後にひとつだけ、あんたのおじいさんは最後まで、ちゃんとやっとったから、心配せんでええ、と言った。
私は、それ以上聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
翌日、私は祖父母の家にもう一度寄って、家を出るときに、桐の箱から、母が持っていた赤い布の切れ端を取り出した。それを持っていくつもりはなかったのだが、なぜか、本州の家に持ち帰るのは違う気がして、家の仏壇の引き出しに、そっとしまって帰ってきた。
取材を続ける中で、私は気になることがいくつか出てきた。
Sさんから話を聞いた集落の風習について、軽く調べてみたのだが、明確に同じ風習は見つからなかった。お盆に布を吊るす類似の風習は、四国だけでなく中国地方や九州にもいくつかある。ただ、Sさんの語る「赤茶けた、血のような色」「お盆の3日間、子どもを家から出さない」「軒先の布が外れたらどうなるかは聞かない」という細部の組み合わせは、文献で確認できなかった。
これは編集側の判断だが、土地の特定につながりかねないので、地名の一部、集落の戸数、Sさんの母方の姓は、本人の希望どおりすべて伏せている。Sさんからもらった写真資料、和紙の記号画像も、本記事では非掲載。
それと、Sさんとは別に、今回の取材中、もうひとつ似た話に行き当たった。
これは私が以前に別の取材で繋がっていた、四国出身の70代女性、Tさんに、念のため軒先の赤い布の風習について軽く聞いてみたときのこと。Tさんは、Sさんの母方の集落とは別の地域の出身なのだが、子どもの頃に、同じような赤い布の話を聞いたことがある、と言った。
Tさんの記憶では、赤い布はお盆に「戻ってこようとするもの」を防ぐためで、その正体は、村で昔、流行り病で集落から離れた家族のもの、と聞かされていたらしい。流行り病、という言い方も、Tさんが祖母から聞かされた表現で、本当のところは別の出来事だった可能性もある、とTさんは付け加えた。
Tさんの集落も、もう赤い布を吊るす家はほぼないという。
同じ風習が、別々の集落に伝わっているのか、それとも、四国の山間部に広く存在した、ある種の共通した「お盆の防御」の名残なのかは、私には判断がつかない。民俗学の文献を調べた限りでは、確証のある記録は見つけられなかった。
Sさんに、もう一度、追加で聞きたいことがあった。
布の切れ端を仏壇の引き出しにしまってから、何かありませんでしたか、というメールを送った。
返信は、3日ほど空いて、深夜に届いた。
あります、と書いてあった。
本州の家に戻ってきてしばらく、半年ほどは何もなかった。仏壇の引き出しのことも、ほとんど忘れていた。
変だと思ったのは、翌年のお盆だ。
13日の夜、私は仏壇の前で、母と祖父母に手を合わせた。線香を立てて、目を閉じて、手を合わせて、目を開けたとき、ちょうど引き出しの取っ手のあたりに視線が落ちた。
引き出しが、ほんの少し、開いていた。
私はその家にひとりで暮らしていた。妻は仕事で出ていて、子どもたちはとっくに家を出ている。引き出しに触ったのは、私が10ヶ月前に布の切れ端をしまったとき、それが最後だった。
私は、引き出しを開けて確かめた。
布の切れ端は、入っていた。ただ、しまったときよりも、少し場所がずれていた、ように見えた。
気のせいかもしれない。
私は引き出しをしっかり閉めて、その夜は寝た。
翌朝、また少し開いていた。
2日目の夕方、私は仕事から帰ってきて、仏壇の前を通った。引き出しは、朝よりさらに開いていた。指1本が入るくらい。
その夜は、嫌な感じがして、なかなか眠れなかった。寝室の戸を閉めて、廊下の電気もつけたままにして、それでも眠れないので、ラジオを小さく鳴らしながら、明け方近くまで起きていた。
3日目の朝には、引き出しは半分くらい開いていて、布の切れ端が、引き出しの縁の上に乗っていた。まるで、自分で出てきた、というふうに。
16日の朝、私は布の切れ端を、桐の箱に戻して、押入れの一番奥にしまった。
17日の朝、引き出しは閉まったままだった。
それから、毎年お盆の3日間だけ、押入れの奥でカタカタと音がする。
音、と書いたが、確かめに行くと止まる。確かめに行かなければ、夜中、ずっと続いている。
気にしないようにしている。妻には、押入れの奥には触らないようにとだけ伝えてある。詳しい話はしていない。
子どもたちにも話していない。話したところで、信じてもらえるとも思わないし、話すことで、何かが伝わってしまう気もする。
軒先には、何も吊るしていない。何を吊るせばいいのか、分からないからだ。
あの集落の主人に聞きに行くべきかとも思うが、主人ももう80を過ぎているはずで、生きているかどうかも分からない。
Sさんからの返信は、ここで終わっていた。
その後、私は何度かメールを返したのだが、Sさんは「これ以上は、もうあまり書きたくない」「家のことは、自分で何とかするので」とだけ返信をくれて、追加の取材は受けてもらえなかった。
掲載許可だけは、最初の取材時に書面でもらっている。
Sさんとの最後のやり取りは、4月の終わりだった。私は、最後にひとつだけ、と前置きして、母の実家のあった集落の名前を、教えてもらえないか、と聞いた。記事を書く上で必要な気がした、というのが私の言い訳で、本当のところは、自分で行ってみたかったのだと思う。
Sさんは、教えなかった。
そのかわり、最後のメールにこう書いてくれていた。
軒先に何かが吊るされている家を見たら、決して触らないでください、と。
これは、あんたのためにも、書いといてください、とも。
取材は、ここで終わっている。
― 取材記録 ―
受け取り日
2026年3月(投稿フォーム経由)
追加取材
メール5往復・電話1回(約1時間)
掲載許可
仮名・地名ぼかし・一部描写の削除を条件に書面で承諾
編集
地名・集落名・母方の姓・戸数の一部を本人の希望で伏字。本筋は手を加えていない
― 三人のひとこと ―
チヨ毎年お盆だけ軒先に吊るされる赤い布。誰がやってるか口にしない、っていうのが集落の答えそのもの。
すみ「誰がやってるかも何のためかも分からない」のに毎年続いてる時点で、誰かは知ってるんですよ。
こわまるやだやだ、四国の山あいの集落でお盆だけ吊るされる赤い布……想像で背中冷たいよぉ、ぴゃっ!
この話、どうだった?