山小屋で一人だけ起きてた夜の話
Cさん(仮名・37歳男性・長野県内の林業関連会社勤務)から、サイトの体験談フォーム経由で届いた話。2026年3月に最初の投稿があり、その後メールで4往復、追加で取材させてもらった。仮名・地名のぼかしを条件に、掲載の承諾をもらっている。
これは北アルプスの単独行の話で、4年前の夏のことなんですけど。
自分は42で、都内で会社員をしてます。山は20代の後半に始めて、30を越えたあたりから北アルプスのテント泊に通うようになりました。
年に4、5回、長めの休みを取って1人で稜線を歩きます。仲間とは行きません。自分のペースで決めたいタイプなんです。
その夏は、お盆に合わせて5泊の縦走を組んでました。北の方から入って、稜線を南下して、雲ノ平の方に抜けるルートです。
3日目の昼、谷筋を1本外したところに地図に載ってない古い小屋がある、というのを思い出したんです。
前の年に山岳会の人と居酒屋で聞いた、戦前から戦後に使われていたらしい木造の中継小屋です。いまは管理人もいない、登山道からは外れる、と。
時間に余裕があったので、寄ってみようと思いました。
本来のテント場までを巻いて、午後2時頃にその分岐に着いたんです。
古い指導標が1本立ってて、字はほとんど消えてました。踏み跡は薄く、地形を読みながら30分ほど下ると、谷を見下ろす台地に小屋が見えました。
木造で、屋根に赤い色がうっすら残ってます。窓は半分が板で塞がってて、扉に鎖は掛かってません。
中に入ると、土間と、上がった先に板の間が1部屋ありました。10畳くらい。
奥に2段の寝棚があって、毛布が1枚畳まれてます。テーブルと薪ストーブだけで、水は引かれてません。
日誌のような帳面が1冊、テーブルの隅に置いてありました。最後のページの日付は2年前の9月で、山岳会の若い人らしい署名と、また来ます、というメモが書かれてたんです。
1泊することにしました。シュラフを広げ、コッヘルで湯を沸かしてフリーズドライの夕食を食べたんです。
日が落ちる前に水場の位置と明日の取り付きを確認して、7時過ぎにヘッデンを消し、寝棚の下段に入りました。
標高は2000メートルを越えてます。8月でも夜は冷えます。外の風と、小屋がきしむ音を聞きながら、うとうとしてました。
夜中、何時かは分からないんですけど、目が覚めたんです。
最初に聞こえたのは、板の間の廊下を歩く足音でした。
土間からこっちに向かって、ゆっくり、規則的に、靴のままで歩いてきます。登山靴のソールが板を踏む音です。
自分は寝棚の下段で、シュラフを首元まで上げたまま動けません。
誰かもう1人、別の登山者が遅れて到着して扉を開けたのかと一瞬思ったんです。けど、扉が開く音を聞いてません。
土間に荷物を下ろす音もしません。足音だけが、いきなり廊下の真ん中から始まってました。
足音は寝棚の前で止まりました。それから、しばらく何も聞こえなくなったんです。
息を殺して、目だけ開けてました。月が窓から入ってて、板の間の輪郭はうっすら見えるんですけど、足音の主は視界に入ってきません。
位置的には、自分のすぐ横に立ってるはずなんです。
そのあと、小さな音がしました。
フィルムカメラのシャッターを切る音です。
カシャッ、というあの音が、1回だけ寝棚のすぐ横で鳴ったんです。
続けてフィルムを巻く、ジー、という小さな駆動音もしました。
それから、また足音が始まって、今度は土間の方に戻っていきます。扉が開く音はしません。途中で、ふっと止みました。
そこからは、朝まで眠れません。シュラフから出ずに、5時の薄明かりまで動かないと決めてました。
誰かのいたずらだと思いたかったんですけど、こんな谷筋の廃小屋に夜中に来る人間がいるとは思えません。動物なら足音のリズムが違います。
明るくなってから寝棚を出ました。土間にも、板の間にも、足跡はありません。前夜に自分が持ち込んだ砂と、靴の跡だけです。
コーヒーだけ飲んで7時前に小屋を出ました。
稜線に戻って、その日のうちにテント場で別の単独行の方と1緒になったんです。60くらいの、北アルプスの常連という感じの人。
世間話の流れで地図にない古い小屋に泊まった、と話しました。場所をぼかしたつもりが、その人はすぐ、ああ、あの小屋ね、と言いました。
何か聞きましたかと聞かれて、足音とシャッターの話をしたんです。
その人は、シャッター音は聞いてない、自分の時は廊下を歩く足音だけでした、と言いました。
それきりで、お互いそれ以上は深追いせず、明日の行程の話に戻りました。
下山して家に帰ってから、その小屋のことをネットで調べたんです。
山岳系の掲示板に、その谷筋の廃小屋という曖昧な書き方で、似た書き込みがいくつかありました。1つは3年前の夏、1つは6年前の秋です。書いてる人はそれぞれ別人で、文体も違います。
共通してるのは、夜中に板の間を歩く足音と、近距離でフィルムカメラのシャッター音を聞いた、というところ。
1人だけ、巻き上げの駆動音まで聞いた、と書いてました。自分が聞いたのとほぼ同じです。
その小屋を昔使っていた人が古いカメラを持って遭難したという記録は、自分が調べた範囲では出てきません。
山岳会の知り合いに聞いても、小屋の歴史までは詳しくない、ということでした。何の音なのかは、いまも分かりません。
あれから自分はあの谷筋には入ってません。
地図の余白に行きたい場所をメモする癖があるんですけど、あの小屋だけは書いてません。書かないと決めてるわけでもなくて、思い出した時になんとなく書かずに済ませてる、という感じです。
今年の夏も北アルプスに入る予定で、あの谷筋は通りません。
― 取材記録 ―
受け取り日
2026年3月(投稿フォーム経由)
追加取材
メールで4往復
掲載許可
仮名・地名ぼかし条件で承諾
編集
山域・山小屋名・同宿者の特徴を本人の希望で伏字。本筋は手を加えていない
― 三人のひとこと ―
すみ地図にない山小屋に単独で泊まる時点でリスクあるのに、足音とシャッター音がしてもまだ寝続けるの、肝座りすぎでしょ。
こわまるやだやだ、夜中に廊下で誰かいる音と一緒にカメラのシャッター音、それセットで来るの一番怖いやつ……ぴゃっ!
チヨ山の古い小屋、ああいうのはね、廊下の足音より先にシャッター音のほうが本物。
この話、どうだった?