築三十年の中古マンションに引っ越した話

📖 約6分
築三十年の中古マンションに引っ越した話

Lさん(仮名・36歳女性・関東のIT会社で経理職)から、サイトの体験談フォーム経由で届いた話。2026年4月に最初の投稿があり、その後メールで5往復、追加で取材させてもらった。仮名・地名のぼかしを条件に、掲載の承諾をもらっている。

これは半年くらい前、いまの部屋に引っ越した時の話なんですけど。

私は29で、メーカーの総務をやってます。

前のアパートの2回目の更新で家賃を2000円上げると言われ、いい機会に隣の市の駅近で探し直したんです。

条件は徒歩10分以内、1階は避ける、オートロック、管理費込み85000円まで。家賃補助が30000円出るので、実質は手取りに収まる範囲です。

不動産屋で5件紹介してもらった中で、すぐに決めたのが今の部屋。

築30年の中古マンション、最寄り駅から徒歩6分、12階建ての8階の角部屋です。家賃は管理費込み78000円。周辺相場と比べて、だいたい20000円くらい安い感じ。

担当の人は、お得な物件です、と何度も言ってきました。

内見でいくつか気になった点があったんです。

1つ目は、玄関を入ってすぐの壁に、電気のスイッチが横並びで6つあったこと。普通の1LDKだとせいぜい3つか4つ。

昔のマンションは配線が独立しているから、と担当の人は説明してました。

2つ目は、浴室が広すぎることでした。床面積が1坪半くらいあるんです。

シャワーチェアを置いても、まだ余裕で人が1人立てるくらいの広さ。

3つ目は、ベランダの柵がやたら高かったこと。

私は身長162センチですけど、柵の上端が肩のあたりまで来ます。乗り出せない、というよりは、乗り出させない、という高さ。

当時の基準で、と担当の人は言いました。私は、安心ですね、とだけ返したんです。

その場で申し込みをして、2週間後に引っ越したんです。

住み始めて気づいたことが、いくつかありました。

共用廊下の床のリノリウムの色が、上の階と下の階で微妙に違います。私の住んでる8階だけ、薄い緑がかったベージュ。ほかの階は、灰色っぽい白なんです。

管理人さんに聞いたら、8階は前回の張り替え時期だけ別のロットになったそうです。

もう1つ、たまにエレベーターの中で消毒液みたいな匂いがします。

アルコールではなくて、もう少し甘い、病院の廊下で嗅ぐような匂い。清掃で定期的に拭いてるから、と管理人さんから聞きました。

それも、そういうものか、と納得しました。

エレベーターの階表示は、最初は気にしてませんでした。

1から12まで普通に並んでて、4だけが「F」と表記されてます。これは縁起の関係でよくあるんですけど、私のマンションは7と9も「7F」「9F」じゃなくて、数字だけで間に小さい点が打ってあるんです。

担当の人は、改修の時にデザインを変えただけ、と説明してました。

引っ越して1ヶ月くらいで、近所のクリーニング屋で住所を聞かれたんです。

○○町の何丁目ですか、と。8番地です、と答えると、50代くらいの女性の店主は伝票を書く手を一瞬止めてから、ああ、あそこ、と言うんです。

あそこ、の言い方に、知ってる、と知らない、の中間みたいな間。

同じ反応は、郵便局の窓口でも宅配の配達員さんでも何度かありました。

古くからこの町に住んでる人は、私のマンションの住所をなんとなく覚えているふうでした。

大家さんに会ったのは、契約後の説明があった時。

70代くらいのおじさんで、もともと地主のお家らしいです。世間話の流れで長くこちらに、と聞いたんです。

大家さんは、戦後すぐからずっとここで、と笑って、ここは○○の頃は、と言いかけて、あ、いまは関係ない話でした、と話を切りました。

私は、そうなんですね、とだけ返したんです。

気になって、その夜、自分のマンション名と住所をネットで検索してみたんです。

マンション名はすぐ出ます。築年数も合ってます。

ただ、その下に出てきたのが、移転前の施設の名前。

同じ住所の番地に、私が生まれる前まで別の建物が建っていた、という地元のニュース記事が2件。記事の見出しに、移転、跡地、という言葉が並んでました。

リンクをクリックする手は、その日は止まりました。

移転の経緯は、地元の図書館で過去の市の広報を見れば分かるはずです。

たぶん、6つある電気のスイッチや、広すぎる浴室や、肩まで届くベランダの柵や、8階だけ違うリノリウムの色や、消毒液の匂いや、エレベーターの階表示や、近所の人の1拍空く反応や、大家さんが言いさして止めた話の続きが、そこに繋がります。

父に電話で家の話をした時、家賃が20000円安かった、と話したら、父は少し黙ってから、何かあるんじゃないのか、と言ってきました。

私は、何もないよ、と答えたんです。実際、住んでみて、不便はありません。

更新は2年後。それまでは、ここに住もうと思ってます。

気にしても仕方がないので、気にしないようにしてます。家賃が安い理由は、たぶんあって、それで構わない、と思うことにしました。

ただ、エレベーターで消毒液の匂いがする日と、廊下のリノリウムを見下ろした時と、ベランダの柵越しに下を見た時に、ふっと、なんで、と思うことはあります。

なんで、の続きは、自分でも分からないままです。

― 取材記録 ―

受け取り日

2026年4月(投稿フォーム経由)

追加取材

メールで5往復

掲載許可

仮名・地名ぼかし条件で承諾

編集

マンション名・所在地・前住人の情報を本人の希望で伏字。本筋は手を加えていない

― 三人のひとこと ―

すみ周辺相場より家賃二万安いマンション、もうその時点で査定終わってますよ。決め手の方向間違ってるでしょ。

チヨ築三十年で家賃が二万円安い理由っていうのはね、不動産屋が口にしないだけで一個しかないんだよ。

この話、どうだった?

こっちにも、もうひとつ

お盆に久しぶりに親戚と会った話

次の話を読む →